2020夏の戦争番組

日本社会が急に戦争を思い出す8月も今日で終わりです。この夏に放送されたアジア・太平洋戦争に関連した番組中、地上波で18本(1本は7月30日放送、またレギュラー報道番組中の特集も含む)を録画し、BSでは5本(過去の番組の再放送を除く)を録画しました。

そのほとんどはすぐに視聴したのですが、NHKスペシャルの「渡辺恒雄 戦争と政治〜戦後日本の自画像」は放送予定をはあくした時点でゲンナリしてしまいまだ見ることができずにいます。

もはや指摘するのもゲンナリしますが、20本を超えるこれらの番組のうち旧日本軍の加害や連合国および戦場になった国々の人々の被害を正面からテーマにしたものは一つもありませんでした。8月2日放送のテレメンタリー2020「揺れる平和都市〜被服支廠は残るのか〜」と8月3日放送のNNNドキュメント煉瓦の記憶 広島・被爆建物は語る」がいずれも旧被服廠の保存問題をあつかっており、「軍都としての広島」という視点が強調されていたこと、また8月15日のNHKスペシャル忘れられた戦後補償」で旧植民地出身の軍人が補償・援護の対象から外されたことがかたちばかり触れられていたのと、金学順さんの映像を用いてアジアの被害者からの補償要求があったことに触れたこと。8月14日の大阪空襲を扱った関西テレビ「報道ランナー」戦後75年特集が砲兵工廠の存在を扱ったこと。印象に残ったのはこれくらいでしょうか。ABCテレビの夕方のニュース番組「キャスト」の8月13日放送で建国大学をとりあげるというのでかすかに期待して録画したのですが、“往時を懐かしむ卒業生”というテイストが強く満足のゆくものではありませんでした。これでも右翼の脳内ではマスメディアが自虐史観に染められていることになっているのですから、やってられません。

 

さて、放送予定を把握していながらあえて録画もしなかった番組が一つだけあります。8月13日の「#あちこちのすずさん 戦争中の青春をアニメで!千原ジュニア&八乙女&伊野尾」です。見ていない以上この番組そのものについて語る資格はないのですが、番組タイトルでも使われている「戦争中の青春をアニメで」というアプローチ、若い世代を意識して題材やメディアを選ぶ手法の問題点は「ひろしまタイムライン」ツイッターアカウントによって露呈した、と言えるでしょう。そりゃ戦争中の日本にも「青春」はあったでしょう。しかしアジア・太平洋戦域ではそれ以上に多くの非日本人の「青春」が踏みにじられたわけです。それとも加藤典洋よろしく「まず戦争中の日本人の青春に思いを致さなければ、他国の人々の青春に思いを致すことはできない」とでも考えているのでしょうか。

読売新聞「昭和史の天皇」音声アーカイブス

読売新聞が1967年から1975年にかけて連載した「昭和史の天皇」、その取材テープが公開されています。

「昭和史の天皇」音声アーカイブス

今後どれくらいコンテンツが追加されるのか不明ですが、戦中の日本で比較的高い地位にいた人物がまだ存命だった時期のものです。今後とも追跡しておきたいと思います。

2020年夏、加害への眼差し(追記あり)

アジア・太平洋戦争に関する記事や番組が増える季節になりましたが、毎年のことながらその大半は“日本人の悲惨な体験”を扱ったものです。そのなかで日本軍による被害体験を扱ったものとして目についたものは泰緬鉄道に関するものでした。

一つは東京新聞によるイギリス人元捕虜へのインタビュー記事です。本日の時点で2回目までが掲載されています。

-100歳元英兵が語る ジャングルに散った親友〈死の鉄道〉(1)」

-生ける骸骨の集団、腐敗臭にまみれた病人小屋〈死の鉄道〉(2)」

もう一つは FNNプライムオンラインに掲載された「終戦から75年…旧日本軍が建設した“死の鉄道” 悲劇の現場で働いたタイ人とマレーシア人の証言」です。二人の証言者のうちタイ人のトンプロムさんは自身が虐待をうけたわけではありませんが、現場で「数え切れないほどの数」の捕虜が亡くなっているのを目撃した、とはなしています。

 

16日追記

朝日新聞』がまたしても泰緬鉄道建設を体験した捕虜(オーストラリア軍)のインタビューを掲載しています。

-日本憎んだ元捕虜、75年後の許し「でも、忘れない」

東京新聞の連載も4回目に達しました。

-敵ではなかった日本兵「あの戦争に勝者はいない」<死の鉄道>(3)

-英国民から「忘れられた軍隊」 今、彼らが語る理由 <死の鉄道>(4)

日本軍による戦争被害の例として有名であるとはいえ、単なる偶然でしょうかね。

それはさておき、東京新聞が取材したバート・ウォーンさん(第3回)と朝日新聞が取材したキース・ファウラーさんが、ともに妻に先立たれてから捕虜体験を語るようになった、と語っていることは示唆的です。東京新聞の連載第4回でも、「戦後50年の節目や妻の死、退職などをきっかけ」にアジア戦線でのイギリス人元捕虜が口を開くようになった、とされています。

“東中野先生、それじゃアポロ陰謀論と同じです!”

この記事はこちらの続きです。

「不覚の「南京占領」研究 : 法廷論争を十年ぶりに振り返る」ないし「南京「占領」研究の盲点 : 法廷論争を11年ぶりに振り返る」の第5節では、日教組の訪中団が1985年に聴取した夏淑琴さんの証言がとりあげられています。彼が噛みつくのは「私は2⼈の妹をつれて、隙をみて逃げだし、死体の⼭の中に埋もれて15⽇間かくれていた」という箇所、および「意識をとりもどして 今でも脳裏にやきついているのは、空地といわず私の周囲は死体の⼭で埋まり、それがガソリンをかけられて無残な炎に包まれていたことであった。」という箇所です。

第一にマギーフィルムでは「古い敷布の下に隠れていた」とされていたのにこちらでは「死体の⼭の中に埋もれて」となっていることに文句をつける東中野センセー。しかしちょっと考えればわかることですが、「古い敷布の下に隠れて」と「死体の⼭の中に埋もれて」は両立します。いくつもの死体が放置された家のなかで敷布に隠れていたのなら、ある時には「古い敷布の下に隠れて」と語り、また別の時には「死体の⼭の中に埋もれて」と語ってもまったくおかしなところはありません。

第二に夏淑琴さんが意識を取り戻したときの記憶です。

 このように、死体の山にかけられたガソリンが15 日間も燃えていたという事件を、南京城内の事件として誰が指摘できるでしょうか。かと言って、証言の信憑性は疑いようもありません。とすれば、証言者は南京「城内」の「新路口5」(本書74頁24行目)では なく「城外」で起きた事件に遭遇していたのでしょう。(後略)(『歴史認識問題研究』第4号、78ページ)

どうです? このインチキ。まあこれがインチキではなく天然だとするとそれはそれで東中野センセーの研究者としての資質に疑問符がついてしまうのですが。

夏淑琴さんはガソリンが「15 日間も」燃えていたなどと証言しているでしょうか? していませんね。意識が戻った時に強く印象に残ったこととして、燃やされる死体の山に言及しているに過ぎません。そしてまったく理由も述べずに「証言の信憑性は疑いようもありません」と断言し、こう推論するわけです。

・「死体の山にかけられたガソリンが15 日間も燃えていたという事件」は「南京城内」の事件ではありえない

・しかし「死体の山にかけられたガソリンが15 日間も燃えていた」という証言の信憑性は疑う余地がない

・ゆえに夏淑琴さんが遭難したのは南京城外である(=マギーフィルムの少女ではない)

しかし上で見たようにそもそも夏さんは「死体の山にかけられたガソリンが15 日間も燃えていた」などとは証言していないわけで、この推論は前提を欠いています。

3点目は連れて逃げた妹の数が一致しない、という指摘です。ここでの東中野センセーの議論で真面目な検討に値するのはここだけです。事件当時の夏さんの年齢を考えると、共に生き延びた妹の数を間違えることはあまりありそうにないこと、に思えるからです。

しかし東中野センセーは自分の想定に反する可能性の検討を完全に放棄しています。彼が無視した可能性のなかでも蓋然性がかなり高いのが「通訳のミス」です。特に北京語を話さない証言者の場合、書き起こした後のチェック作業が入念に行われていなければ、どこかに翻訳上のミスが入り込む可能性はかなり高いと考えるべきです。

もちろん東中野センセーの仮説が別の部分で強い説得力を獲得している場合、具体的な根拠もないのに「誤訳」の可能性を強く主張することはできません。しかし事実はまったく逆で、彼の仮説の前提はデタラメです。だとすれば、これが「誤訳ではない」根拠を東中野センセーが示さねばならないでしょう。

 

この論考で彼が一番強調したかったのは第8節かもしれません。東京地裁判決の「学問研究の成果というに値 しないと⾔って過⾔ではない」が確定判決である東京高裁判決では削除されていることを指摘し、地裁の裁判官を呪っています。「そもそも或る研究が学問研究にあたいするかどうかを判定するだけの専門知識が──どの研究分野も極めて細分化され深化しているだけに──裁判官 にあるとも思えません」と(『歴史認識問題研究』第4号、81ページ、原文のルビを省略)。しかしそれをいうならば東中野センセーに専門家としての裁判官が下した「判決」を判定するだけの専門知識があるのか? も問われることになってしまいます。現に彼はその前の7節で法的知識の危うさを露呈しています。

 このように全面的に改竄された無声映画の「映画解説」は歴史学上の史料とはなりえ ません。刑事訴訟法上の物的証拠ともなりえず、字幕説明に基づいて抜本的に修正され ねばならないのです。無声映画とその「字幕説明」が正しいとすれば、それが事件の存在と様態を示す「唯一無二の物証」に近かったからです。(『歴史認識問題研究』第4号、80ページ、原文のルビを省略、下線は引用者)

まず刑事訴訟法に「物的証拠」なる概念は登場しません。俗に言う「物的証拠」はそれに関する検証や鑑定を記した書面として証拠となります(ただし供述者が公判期日において証人として尋問を受け、その真正に作成されたものであることを供述することが条件)。また彼が破れたのは刑事裁判ではなく民事裁判ですが、民事では刑事に比べて証拠規則がゆるく、刑事では証拠にできないものでも民事では証拠になる、ということはよくあります。「改竄」云々の主張についてはこれまで検討してきたものと大差ないので、省略します。

 

最後に、『亜細亜法学』版にはなく『歴史認識問題研究』版で新たに加えられた「付説――それは偽造フィルムであった」。今回始めて後者に目を通したので「おっ」と思ったのですが、中身を読んで爆笑しました。「アポロは月面着陸していない」という陰謀論がありますが、その提唱者たちがやっているのとまったく同じ間違いを犯していたからです。

 

 

 

“東中野修道の弁明”

夏淑琴さんとの裁判に破れ出版社と連帯して400万円の損害賠償を支払うよう命じられて以降、右派論壇から姿を消していた東中野修道氏が、2013年から亜細亜大学法学研究所の紀要『亜細亜法学』にひっそりと寄稿を再開していたことは知っていたのですが、表舞台への復帰でもないのでスルーしておりました。ところが、2018年の『亜細亜法学』52(2)に掲載された「不覚の「南京占領」研究 : 法廷論争を十年ぶりに振り返る」が『歴史認識研究』の第4号(2019年春夏号)に「南京「占領」研究の盲点 : 法廷論争を11年ぶりに振り返る」と改題のうえ転載されています。この『歴史認識研究』を発行している歴史認識研究会の中心になっているのは西岡力高橋史朗ですので、ちょっと無視できないと思い直し、とりあげることにしました。

歴史認識問題』掲載のものはこちらから、『亜細亜法学』のものはこちらから、それぞれ PDF ファイルで閲覧できます。

東中野の弁明”の前半はいわゆるマギーフィルムの解説文の解釈にあてられています。まず夏淑琴さんの一家を襲った惨劇を記述した部分を Eyewitenesses To Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing (Ed. Zhang Kaiyuan, M.E. Sharpe) から引用しておきましょう(pp.209-210)。

  1. On December 13, about thirty soldiers came to a Chinese house at #5 Hsing Lu Kao in the southeastern part of Nanking, and demanded entrance. The door was opened by the landlord, a Mohammedan named Ha. They killed him immediately with a revolver and also Mr. Hsia, who knelt before them after Ha's death, begging them not to kill anyone else. Mrs. Ha asked them why they had killed her husband and they shot her dead. Mrs. Hsia was dragged out from under a table in the guest hall where she had tried to hide with her one-year old baby. After being stripped and raped by one or more men, she was bayonetted in the chest, and then had a bottle thrust into her vagina, the baby being killed with a bayonet. Some soldiers then went to the next room where were Mrs. Hsia's parents, age 76 and 74, and her two daughters aged 16 and 14. They were about to rape the girls when the grandmother tried to protect them. The soldiers killed her with a revolver. The grandfather grasped the body of his wife and was killed. The two girls were then stripped, the older being raped by 2–3 men, and the younger by 3. The older girl was stabbed afterwards and a cane was rammed into her vagina. The younger girl was bayonetted also but was spared the horrible treatment that had been meted out to her sister and her mother. The soldiers then bayonetted another sister of between 7-8, who was also in the room. The last murders in the house were of Ha's two children, aged 4 and 2 years respectively. The older was bayonetted and the younger split down through the head with a sword. After being wounded the 8-year-old girl crawled to the next room where lay the body of her mother. Here she staid for 14 days with her 4-year-old sister who had escaped unharmed. The two children lived on puffed rice and the rice crusts that form in the pan when the rice is cooked. It was from the older of these children that the photographer was able to get part of the story, and verify and correct certain details told him by a neighbor and a relative. The child said the soldiers came every day taking things from the house; but the two children were not discovered as they hid under some old sheets.
        All the people in the neighborhood fled to the Refugee Zone when such terrible things began to happen. After 14 days the old woman shown in the picture returned to the neighborhood and found the two children. It was she who led the photographer to an open space where the bodies had been taken afterwards. Through questioning her and Mrs. Hsia's brother and the little girl, a clear knowledge of the terrible tragedy was gained. The picture shows the bodies of the 16 and 14 year old girls, each lying in a group of people slain at the same time. Mrs. Hsia and her baby are shown last.

下線はいずれも引用者によるものです。改めて言うまでもなく、"another sister of between 7-8" は殺害されたのだから "the 8-year-old girl" "the little girl" は夏家の娘ではない……というのが東中野氏の主張になります。

しかし上に引用した英文を素直に読めば"the 8-year-old girl" という定冠詞付きの名詞句で指示されているのは"another sister of between 7-8" 以外にありません。この少女については "bayonetted" は「銃剣で刺殺した」ではなく「銃剣で刺した」と読むのが、このテクストを先入観なしに読んだ場合の合理的かつ素直な解釈です(なにしろ2センテンスを挟んで "After being wounded...... " とされているのですから)。しかしここから東中野氏のアクロバットが始まります。

彼がまずすがるのが "a relative" (親戚)です。

本書75頁15行目の「親戚」(a relative)は「シア夫人の兄」を指していました。不定冠詞が使われている以上、登場人物の誰それの親戚とは特定されない、それゆえ少女Aの親戚とは特定できない関係にあったことになります。

そこから次の結論が出てきます。シア夫人の兄は少女Aの「親戚」すなわち「伯父」と は特定されなかったのだから、「少⼥Aはシア家の⼦ではなかった」、という結論が。

しかしそうではなく、逆に、「シア家の少女A」という逆の仮定に立ってみるのもよいでしょう。その時、「シア夫人の兄」は「シア家の少女A」の親戚であることが明白ですから「彼女の親戚」、すなわち her relative または a relative of hers となり、「映画解説」 のように不定冠詞の a relative とはならないのです。(『歴史認識問題研究』第4号、76ページ。原文のルビを省略)

"a relative" は「シア夫人の兄」を指していたといいながら、不定冠詞つきだから「誰それの親戚とは特定されない」というのは謎論理過ぎます。「誰それの親戚とは特定されない」というのであれば、そもそも "a relative" と "Mrs. Hsia's brother" とが同一人物かどうかわからない、と言うべきでしょう。しかしそもそもこの記述には家主のハア(哈)一家と夏さん一家しか登場せず(撮影者を除けば)、殺人が起きた現場が夏さん一家の住居であった以上、"a relative" は(他に特段の事情がない限り)夏さん一家の親戚であると考えねばなりません。"Mrs. Hsia's brother" が登場した後に"a relative" が登場したのであれば「後者は誰だろう?」と頭をひねるのも当然ですが、最初に不定冠詞付きの表現で導入された人物が後により確定的な表現で記述されるのはごく普通のことです。"another sister of between 7-8" が次には "the 8-year-old girl" となっているのと同じことです。

無声映画の「映画解説」の末尾には、「シア夫人の兄(Mrs. Hsia’s brother)とこの小さな女の子(the little girl)にたいする質問を通じて」(本書75頁23行目)と記されていま す。もしこの小さな女の子(the little girl)がその前のMrs. Hsia と親子関係にあったとすれば、her little girl またはthe little girl of hers と記されて当然でした。しかしそうではな くthe little girl である限り、少女Aがシア夫人の子であるとは特定できない、シア家の子であったとは言えない、という結論に導かれます。(『歴史認識問題研究』第4号、77ページ。原文のルビを省略)

導かれません! ここで "the little girl" と記述されうる人間は "the 8-year-old girl" 以外には存在せず、彼女が "another sister of between 7-8"、すなわち「シア夫人の子」であることは文脈上明白ですから、ここで初めて「シア夫人」との関係が明白になる「兄」とは違って "her" で限定されねばならないという必然性はないのです。

5節以降については稿を改めてとりあげることにします。

 

 

 

 

7月7日の日本メディア

7月7日、9月18日、12月13日といった「12月8日と8月15日以外」でアジア・太平洋戦争の節目となる日付に日本の新聞の報道をチェックする記事を書いてきましたが、今年の7月7日も相変わらず「中国で式典が……」という記事だけです。しかも『朝日新聞』はそういう記事すら掲載していないようです。

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Googleニュース検索で「盧溝橋事件」を検索

ただ、7月7日の『朝日新聞』の大阪本社版夕刊には「(戦後75年)日中戦争、ある教師の従軍日記 亡父の手帳・原稿用紙、公開」という興味深い記事が掲載されています。

日中戦争の発端となった「盧溝橋事件」から83年を迎えた7日、野砲兵として中国戦線に赴いた亡父の従軍日記を、大阪市中央区の高田幸男さん(63)がHP上で公開した。埋もれかけていた手稿を公的記録と照合。一兵士の実体験を戦況の推移と併せて追える資料に仕上げた。

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朝日新聞』大阪本社版2020年7月7日夕刊

記事にはホームページのURLが記載されていませんが、「野砲兵の日中戦争日記」というタイトルで検索すればヒットします。

www.ac.cyberhome.ne.jp