米公文書公開、「百人斬り」訴訟高裁判決、そして「ネタのシニシズム」再び


「ジャップは裏切り者」 72年にキッシンジャー氏
「百人斬り競争」訴訟、二審も本社などが勝訴

いやまあ政治家たるもの、ことばには気をつけないと後になって恥をかきますな。キッシンジャーが日中国交回復に激怒してた、という公文書が公開されてロッキード事件陰謀説が噴出するかと思ったけど、私がみたかぎりではそれほどでもなかった。角栄が「抵抗勢力」の起源とみなされて擁護の対象にならない、というのもあるのだろうが、若い人はロッキード事件なんてろくに知らないし関心もないんだろうな。なにしろ角栄以外の政治家も起訴されてるってことすら知らないとおぼしき書き込みを見かけたから。橋本が佐藤孝行を入閣させようとして大反発食らったのって、そんなに前のことでもないのになぁ。

もう何度も書いてきて面倒なので要点だけ繰り返すが、日中国交回復は(そして今回公開された米文書が作成されたのも)72年。丸紅経由で田中がロ社から金をもらった(とされている)のが73年。ロッキード事件が明るみに出たのは三木内閣時代の76年。CIAは3年以上もなにをもたもたしていたんでしょう (笑) とっくに「金脈」問題で首相を辞任していた田中をはめるためにオランダの王族まで巻込んだ? 詳しくはこちらでもご覧下さい。

これに比べると「百人斬り」裁判の高裁判決はより多くの反響を生んだようだ。原告側弁護団の主張があまりにもデタラメというか、あまりにも勝ち目のない訴訟だったのでさすがの2chでも「当然じゃない?」といった反応がそこそこ見受けられるが、それでも「不当判決!」とかサヨクっぽい主張をしている人びともやはりいる。そうした人びとに共通しているのが、被告側の主張はおろか原告側の主張すら正確に把握してないんじゃないか、と疑いたくなる無知っぷり。田中だけがロッキード事件で起訴されたと思っている無知にせよ、判決が東京日々新聞の報道を「虚偽とは言えない」と認定したと思っている無知にせよ、それ自体としては別にかまわない、というかまあしかたない、と思う。人間、すべてのことに興味関心を抱くことはできないから。しかし、それくらい無知であるってことはたいして関心もない、ってことですよね? にもかかわらずなんで「田中はCIAに嵌められた」とか「不当判決」とか書くかな。知らないなら黙って「読む」立場に徹すればいいじゃない。知らないことは(まあ事柄にもよるが)恥じゃない。しかしよく知りもしないことについて、無数の人の目に触れるかもしれない場で書くことは恥ずかしいことだ、って感覚はもう廃れてるのですか、そうですか。 原告側の主張がなんであるかすら把握していないのに「不当判決」って叫ぶのは破廉恥極まりないと思うんだけどなぁ。
南京事件否定論にしても、それなりに小林よしのりなり東中野修道をちゃんと読んでいるのはむしろ少数派で、むしろ自分でもなぜ「南京事件マボロシ」と思っているのかわかっていないのがどうやら多数派らしい。で、ちょっと突っ込まれると「ネタ」ですから、と逃げる。そうした退廃の典型的なケースがこちら(コメント欄を含む)。「ネタ」だから「南京事件マボロシ」説と「南京事件犠牲者30万人説=マボロシ」説の区別も重要じゃないし、「ネタ」だから「マボロシ」と断じる根拠を提示する必要もない、と。いいねぇ気楽だねぇ。「ネタですから」とあとから言い訳すればなにを言っても責任を負わずにすむ、と。「ネタ」だからという理由であらゆる責任を回避しつつ、ネタにしていいことと悪いことを区別する良識もなく、じゃあ例外なしになんでもネタにするのかといえば「自分の最もヴァルネラブルな部分をネタにする」という覚悟などみじんもなく、自分の自己愛をくすぐってくれる言説を真贋問わず「ネタ」という口実でノー検証でダダ漏れにする、と。自分が笑われるのは我慢ならんがひとを笑うのは大好き、と。

やはり「ネタですから」という語法を用いる場合の作法がきちんと継承されなかったのは致命的ではないかなぁ…。

追記:Jonah さんのはてなブックマークコメント、

あと他人がネタとして話してることをベタに受けとって糾弾するって風潮もあるような

について。たしかにそうした事例はいくつもみられるだろうが、それは最近の「風潮」というよりはネット時代以前からある、決して新しくない振る舞いなのではないだろうか。私が「ベタに受けとって糾弾」ということでまず連想するのは「親が子どもに見せたくないテレビ番組トップ10」みたいな、いわゆるPTA的潔癖主義なのだが…。「ネタ」という振る舞い方が出現した時、「ベタ」の世界しか知らない人びとの反応としてそうしたものは出現してくる。しかし「ネタ」的振る舞いというのはそうした「ベタ」な反応を前提としているわけであって、その「糾弾」なくして「ネタ」は「ネタ」たりえない。むしろ現在問題なのは、きっちり糾弾するのではなく「まあネタだから放置しておこう」と流してしまうような態度が蔓延していることなのではないだろうか。「ベタ」との間の緊張関係を失ってしまった「ネタ」的振る舞いは退廃する。本来「ネタ」は「ネタ」の対象と同時に「ネタ」にする自己をも相対化する態度であったはずで、それゆえ「ネタ」の内容についての真理性要求はカッコに入れられている。しかし上でURLをあげた事例なんかをみる限り、「一方的な対象への侮蔑+自己相対化の欠如」を「ネタ」と言い繕い、「ネタ」であることを口実にネタの内容への反論を遮断することで、実質的な真理性要求を行っているという振る舞いでしかないように思われるのだが(→北田暁大を参照)。


(初出はこちら