次々と現われるサンプル

(続・どんな証拠を突きつけても否認し続ける人びと)


まずは先日のエントリについたはてブコメントから。

2006年07月22日 activecute おいおい。1師団でそれじゃ多くはないだろ。 > 『私は南京戦において1師団だけで約380万発の銃弾を携行していたという史料を提示しました。』

そもそも「多い」「少ない」ってのは文脈に依存する。380万発の小銃弾で1個師団が1年間戦えるかといったらそりゃ無理なんで、その場合には「少ない」が、ここで問題になっているのは4万〜20万人(あるいは30万人)を殺害できるかどうか。しかも通常の戦闘によってではなく、後ろ手に縛って並ばせた捕虜を銃殺する…といった状況においてである。それでもなお「少ない」というのなら(しかも380万発というのは第百十四師団だけでの保有数であり、南京戦に参加した日本軍は9個師団以上の兵力だった)、それは「虐殺はなかった」というのがアプリオリな前提となっており、その前提に反する事実は見たくない聞きたくない読みたくない認めたくない、ということにほかならない。コメント欄で黒的九月さんが

「弾丸・弾薬は何発あれば潤沢(不足していない)と言えるんでしょうか」と質問して向こうに言わせたほうが イイのかもしれませんね。 
 もっとも大戦末期の米軍並みの補給が無いと不足だなんていう無茶なハードルを課すんでしょうけど。

と指摘しておられたが、なんの根拠もなく「弾薬不足」と主張し、数字を突きつけられても「いやそれじゃ足りない」と言いつづけていればいいのだから、否定論者というのは気楽な商売だ。


ついで同じエントリのコメント欄の 49h 氏。

死傷者一人あたりの使用弾薬数は自動小銃が開発される前の第一次世界大戦では、おおむね7000発と推定さ れているが、第二次世界大戦では2万5000発になり、ベトナム戦争では5万発を超えると言われている。


ったった、380万発ですね。
1師団で600人しか相手を倒せない程度の弾薬数。
ノモンハンでは100門の砲に対して28000発の弾薬だった記憶が。

戦闘中の弾薬消費量と比較するというミエミエの詭弁。ちなみに第二次上海事変で日本軍は「砲弾」不足には悩まされたが、捕虜を殺すのに別に砲弾は必要ではない。というか使えない。
で、さっそく他のコメント投稿者からも突っ込まれると

いや、単に日本軍は弾薬不足であって決して数千万発も持っていたのではなく、
たった数千万発しかもってなかったといいたいだけです。


南京を陥落させたとはいえ、相手に反撃されたら残弾数が不安になる程度の弾薬しかなかったわけです。


まぁ、そのそれしかない弾薬で虐殺をしたかしなかったなんかはどうでも良いですが、


弾薬数のゆとりがなかったってだけ。

ゆとりがなくても銃剣でとか、戦闘には足りなくても、捕虜を殺すにはなんていっているのは、それこそ話をず らしているだけでしょう。

南京防衛軍は壊滅状態だったし、日本軍は南京を陥落させれば戦争は終わりだ、と認識していた。それにしても「戦闘には足りなくても、捕虜を殺すにはなんていっているのは、それこそ話をずらしているだけでしょ」ってのはひどい。問題ははじめから捕虜(と敗残兵、民間人)を殺害したか否か、である。しまいには

別に南京大虐殺があろうがなかろうがどうでもいいんだけどさ。
別にあったからといってどうって事もないし、なかったからといってなんてこともない。


虐殺は戦争において諸刃の剣であるが、非常に効果的な戦術だしね。


人の死体は防弾、防爆に適してるんだよね。
だから1列に並べないといけないし、
1列に並べてもなかなか死なないもんなんだよね。
銃殺の映像なんか見ているとよく分かる。
結構おもろいしね。

と胸糞の悪いことを言い出す。これについては春日さんから

またしても、「あろうがなかろうが関心ない」と言いつつ故意か無意識にか「なかった」説に強く依拠している 言説のサンプルが採集できてしまいましたね……

というツッコミが入っていて、その通りだなと思う反面、ひょっとしたら本気で「どうでもいい」と思っているのかも、と。南京や広島やベイルートで何人死のうが知ったこっちゃない、と。実際、アメリカの教科書が原爆の被害者数を過少に書こうが気にならない、と言い放った否定論者もいたし。南京事件否定論者は大抵の場合首相の靖国参拝支持派であることを考えると、Jonah さんの次の指摘がなるほどと思えてくる。

私の感想を書いておく。昭和天皇の発言を記したメモが異様に生々しい政治の場面を描き出しているのに対して、安倍官房長官の「私は国のために戦った方々のためにご冥福をお祈りし、尊崇の念を表する気持ちで靖国神社に参拝してきた。その気持ちに変わりはない」(産経)という言葉が、(「冥福を祈る」や「尊崇の念」という言葉本来のもつ意味に反して)とても乾いた、浅薄なものにしか感じられないということだ。彼のようにドライでない人々には、このメモの存在は大きな衝撃を与えた(毎日)。

他者の死に対する徹底的な無関心。死刑存置派が7割を超えるというのも、被害者(遺族)感情を考えてのことというより「見知らぬ犯罪者が死のうが知ったこっちゃない」という心理によるところがあるのだろうか。


最後が例のところ。私が

(…)とすれば、否定論者は
1.弾薬は十分あったことを認め、「規律」を根拠に事件を否定する
2.弾薬が十分あった、というberryさんの主張に反論する
のどちらかを選ばねばならないわけですが、どっちにしますか?

と問うたところ、

あと1.2.のスタンスはどちらでもいいと思うのですが?
それを論じても面白いですけど弾薬ゆとりがあるなしの答えが出ても
私たちの質問の答えにはならないですよ?

との返答。やれやれ…。




(初出はこちら