南京事件否定論と本質主義

南京事件否定論者の主張を読んでいてしばしば巡りあうのが、事件=あった派に対する「そんなに日本人を貶めたいのか」「われわれの先祖は鬼畜だったというのか」といった類いの非難である。私のような素人が改めて南京事件について調べ直すようになり、余暇を割いてまで発言せねばと思うようになったのはそもそも否定論がはびこっているからで、みなが事件の存在そのものはきちんと認めているのであれば、私だって専門家に任せて別の問題に時間を使いたいところだ…というのはともかくとして、「あった」派の南京事件研究に対する否定派の拒否反応は極めて興味深い問題を示唆しているように思われる。


私自身も含め、私が見聞したかぎりでの「あった派」の主張は事件をまず「旧日本軍」の問題として捉え、日本軍の体質であるとか制度、日中戦争の性格などとの関わりで解明しようとしているわけである。一部の高級将校を除けば、個人の資質に原因を帰するような議論はしていないし、これまでのところ(と言うべきか、もはや、と言うべきか)個人の責任を問うような主張はおこなっていない。
他方でいまなお南京事件にこだわりを持つもうひとつの理由として、それが孤立した一つの出来事なのではなく*1、その後の戦争で繰り返し現われる問題、人類が共有する普遍的な問題を露呈させた出来事だから、ということがある*2


このように、「あった」派にとって南京事件は国家の問題、日本軍の問題、(現時点であまり強調されていないが)南京戦に参加した個々人の問題、そして人類全体の問題であるが、決して「民族」の問題ではない。南京事件を日本人の「民族性」によって説明しようとする「あった」派を私はただの一人も知らない。これは他の戦争犯罪についても同様である。ソンミ村の虐殺は米軍の犯罪、カリー中尉と彼が率いた中隊の犯罪、アメリカ政府の犯罪ではあっても、「アメリカ民族」の犯罪ではない。これを通州事件や「(南京事件の)捏造」なるものに関する否定論者の態度と対比してもらいたい。事件は冀東防共自治政府の保安隊によって起こされたのだがそんなことはおかまいなし。30万人説は国民党政府の戦争裁判によってうちだされた数字なのだが、国民党だろうが中共だろうが同じ。全部「中国人」の問題だ、というわけである。彼らにとって、もし南京事件が本当にあったのなら、それは日本民族の残虐性を証しするものになってしまうから、どんな根拠を示されても認めるわけにいかない、ということであろう。


要するに否定論者は、自分たちの本質主義を勝手にこちらに投影して、「あった」派は日本民族を攻撃している! と思い込んでいるわけである。中国政府ですら「悪いのは軍国主義者で、人民は被害者」を公式見解としているというのに…。しかしこの齟齬を解消するのは容易ではあるまい。

*1:もちろん、この事件にしかない固有性を認めたうえでのはなしだが。

*2:私の「南京からベイルートへの道」を参照されたい。