書こうかどうか、書くとしてどう書くか迷ったのだが…

「木走日記」の「日本国民に告ぐ。日本男児の血の叫びを聞け。〜「百人斬り競争」野田元少尉の手記」。迷った、というのは第一に煙さんswan_slabさんが的確なエントリを書いておられるからであり、第二に「百人斬り」の両少尉をこれ以上話題にすることに意義を見いだせないからである*1。それゆえ、両少尉が死に臨んでどのようなことばを残そうがそれについて批判的なことを言うつもりもないのだが、他方で彼らのことばを濫用する人間がいるとなればはなしは別である。以下、煙さんやswan_slabさんとなるべく重ならないように、N少尉の手記ではなく「N少尉の手記についての発言」についてコメントする。


 まずもって、「その〔=東京日々新聞ほかの報道の〕真偽が裁判沙汰にもなったわけですが」というあたりで「ああ、この人も事実関係をきちんと把握しないまま語っちゃってるのか」と思ってしまう。また
裁判を通じて「肯定派」も「否定派」も共通認識として認めたのは、当時のメディアの戦意昂揚記事の裏付けを取らないいい加減な記事掲載行為でありました。
というあたりも、政府による検閲があり「国威発揚記事」を書くよう強いられたという状況*2を無視した似非メディア・リテラシー論だ。しかしなにより問題なのは、手記から無批判に次の部分を引用しているところ(引用中の個人名はイニシャルとした)。
 たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たるNの生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以て今後中日間の怨みや讐(あだ)や仇(かたき)を絶対にやめて頂きたいのです。
 東洋の隣国がお互いに血を以て血を洗うが様な馬鹿げたことのいけないことは常識を以てしても解ります。
 今後は恩讐を越えて誠心を以て中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいです。
 中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以てするなら中国人にも解らない筈はありません。
 至誠神に通じると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。
あえて日中戦争歴史的評価については括弧に入れることにしても、日中戦争における中国側の被害は日本側のそれを上回ること、日中戦争が行なわれたのは中国においてであって日本においてではないこと、これは何人たりとも否定できない事実であろう。にもかかわらず、「恩讐を超えよ」とか、「胸中に怨みを残す」なと日本国民に対して説く手記に感銘を受けてしまうというのは一体どういうことか! だいたい、「ここで「百人斬り競争」の真贋論争をするつもりはさらさらない」と本気で主張するなら、「贋」である可能性と同じくらい「真」である可能性をもふまえてこの手記は評価されるべきであろう。当時の新聞報道通りのことがあった可能性、ないし遺族による名誉毀損裁判で実質的に認定された「据えもの斬り」が事実であった可能性をふまえるなら、上の引用箇所は驚くほどあつかましい言い分として理解する余地があるはずである。すでにコメント欄でも同趣旨の指摘があったが、この手記を手放しで賞賛できるのは、N少尉の無実を前提とした場合のみであろう。

*1:遺族による名誉毀損訴訟の過程で出てきた諸々の証拠から、2人が「死刑」はともかくとして有罪に値する戦争犯罪を犯したことはほぼ確実であるが、他方で彼らが(南京軍事法廷での)ただ4人の被告の2人としてふさわしかったかといえば必ずしもそうとは思えず、また他の多くの責任者・実行犯と違ってすでに死刑によって罪を償っているからである。

*2:もちろん、メディアがそれに迎合したという側面を忘れることはできないが。