『バターン「死の行進」を歩く』

文藝春秋の2005年12月号に掲載された笹幸恵の「「バターン死の行進」女一人で踏破」中でも言及されていた、『バターン「死の行進」を歩く』(鷹沢のり子、筑摩書房)を図書館で借りて読んだ。刊行(1995年)前年の夏に『週刊金曜日』に連載された原稿に加筆したものである。
笹氏の場合と異なるのは、鷹沢氏の場合、日本とフィリピンとのキリスト教会間の交流から生まれた「生の行進」という企画に参加した(つまり「女一人」ではない)という点である。道程の一部に車を利用したともされている(もっとも、笹氏も「死の行進」のルートからはずれてホテルに向かう際には車を利用したようだが)。
単行本にまとめられた記述と雑誌の単発記事とを比較することはフェアとは言えないが、それにしても二人の志の違いは明確である。笹氏の記事は「死の行進」の第一の責任がアメリカにあることを主張したい、という欲望が露骨で(その一例が、元捕虜たちの証言については具体的な根拠もなくその信憑性を疑ってみせながら、日本側の戦記の記述についてはなんらの留保もなしに引用している点)あったけれども、本書はまずもって「死の行進」を巡る複雑な事情を、その複雑さをむやみに刈り込まずに記述しようとしているからである。その結果、捕虜たちが水や食料を与えられたり市民たちによる差し入れが認められたケースについての記述もあるし、行進から脱落した捕虜が殺害された事例、入院中の負傷兵まで行進させられたといった悲惨な事例、一般市民までが行進に巻き込まれたこと、捕虜ばかりでなく市民からも貴重品を略奪しようとしたこと、フィリピン女性への強姦事件が発生していたことや、「パンティガン川の虐殺」についての記述もある。また、「死の行進」を目にしたフィリピンの市民が反日感情をつのらせたという証言だけでなく、米比軍内の差別構造や、親米派のゲリラと毛沢東主義に影響を受けたゲリラ(フクバラハップ)との対立についても記述しているし、「死の行進」ゼロメートル地点に建てられた記念碑の説明文が、おそらくはマルコス元大統領の自己宣伝のために事実を誇張している、といった指摘も(冒頭部分で)なされている。長い目でみれば、このように「党派的に考えれば都合の悪い情報も隠さない態度」こそが勝利するのだと考えたい。


本書の難点の一つは、日本軍の行動についての記述にいろいろと不備があることだ。本書には「生の行進」体験、それに参加した動機に関わる著者のフィリピン体験および当時の目撃者や生存者からの聞き取り結果、「死の行進」の歴史的・軍事的背景の解説、太平洋戦争中のフィリピン情勢の解説…などと様々な要素が詰め込まれており、バターン半島攻略の過程などは副次的な要素でしかないからやむを得ない部分もあるとはいえ、添付された地図には載っていない地名が登場したり、名前の挙げられている旧日本軍軍人の所属部隊が明記されていないケースもあり、どの部隊が「死の行進」に関わったのかさえ、本書を読んだだけではよくわからないのである。旧日本軍に(肯定的にであれ否定的にであれ)関心をもつ者なら誰でも知っている辻政信の名前も登場する(前述したように、所属は明記されていない)。敗戦後に戦犯として処刑された本間中将が、承服できない訴因として挙げた「集団虐殺」の例である「パンティガン川の虐殺」に関して、「各部隊は手許にいる米比軍投降者を一律射殺すべし、という大本営命令を伝達する」と、辻参謀が口頭で伝達して歩いた、という件である。もっとも、この点に関して著者は角田房子の『いっさい夢にござ候』に丸投げしており、本書を読んだだけで即断することはできない。事実とすれば南京事件における長勇参謀の「やっちまえ」命令と非常に類似したケースで、また状況証拠的にも「そうしたことがあってもおかしくない」とは言えるが。個人名を出す以上、もうちょっと踏み込んだ著者なりの調査があってしかるべきではなかったか。


こうした難点はあるにしても、どちらかといえば過去の戦争に対して語ることに積極的ではない(つらい体験は思い出したくない)フィリピンの民衆から諸々の証言を聞き出した著者の努力は評価されるべきであろう。「水や食料の補給を受けた」といった証言と「水を呑もうとした者は射殺された、ろくに食料を与えられなかった」といった証言のばらつきについても、著者は十分説得的な説明を与えている。著者の説明を私なりに再構成するなら、その背景は南京事件の場合と多くの共通点をもつ。まず、軍中央および現地軍最高首脳の問題としては「捕虜の取り扱いに関する明確な方針の不在」である。そして大量の捕虜(や敗残兵)が存在しているという現実を無視して、「コレヒドール島攻略」や「南京入場式挙行」といったさらなる命令を出す。多数の捕虜を抱えては実行困難な命令を出された現場部隊は混乱し、そこに師団長・旅団長・中堅参謀レベルの「独断」がからむ。現場の兵たちは「とにかく速やかに行軍せよ」「便衣兵を摘出せよ」とだけ命令されたが、それを人道的・合法的に行なうだけの物質的・法的インフラは存在しなかった。しかも兵士に対して戦時国際法の教育などなされていなかったから、命令に従おうとすれば結果として「虐殺」と言われても文句の言えない結果をもたらしたわけである。バターン「死の行進」の場合も、捕虜たちの監視にあたった部隊の隊長(日本軍の実態に照らせばおそらく中隊長)の個性や保有物資の状況(ここでも食料を「現地調達」に依存する体質は同じであった)によって、捕虜たちの待遇にもばらつきがあった、ということであろう。しかしそうしたばらつきが存在したこと自体、第14軍、ひいては日本陸軍の責任であると言われてもしかたのないことではある。