「民主的統制」としての「戦争犯罪追求」、あるいは一文にもならない南京事件否定論

このエントリへのGl17さんのコメントより。

戦争犯罪への国家寄りの異説に反駁するのは、民主主義の理念を守りたいという思いが主です。
相手が外国人であれ、「自国が」人権侵害について隠蔽あるいは正当化を行うというのは許容できません。
(中略)
自国の政府*1であるから、シビリアンコントロールの観点から監視・抑制を欲するのです。
他国の人権侵害であれば、他人事で済まなくはないですが、日本ならば自分の話ですから。

これは非常に重要な観点だと思う。国家は自分にとって都合の悪いことを隠蔽する傾向をもつ。被害者が自国民であろうと*2、他国民であろうと。いや、本当に「国家」にとって都合の悪いことを隠蔽するのであればまだいい。正確には「国家」を僭称する特定の政権政党だったり、官僚機構だったり、特定の人脈が自分たちにとって都合の悪いことを隠蔽するのである。沖縄返還にあたって日米政府間に「密約」があったことを隠蔽して、「日本」はなにか利益を被ったのか? 得をしたのは自分の在任中に沖縄返還を実現することにこだわった佐藤栄作と彼に連なる人脈に過ぎないのではないか? 日本軍の戦争犯罪を否認することで、日本はびた一文でも得をするのか? 中国はすでに国家としては賠償請求権の放棄を表明しているし、中国人(あるいは韓国人)被害者が起こした個人補償裁判では「被害事実は認めるが、賠償請求は却下する」という判決が相ついでいる。逆に「南京事件の犠牲者は40数人だった」などと主張することで、日本がびた一文でも得をするのだろうか? 得をするのは旧日本軍及び旧日本政府の関係者、そして彼らに感情的に同一化する人々だけであって、「日本」ではない。「自称国家」、その実特定の政権政党だったり、官僚機構だったり、特定の人脈が隠蔽する人権侵害を告発することは、まさに「愛国的」な振る舞いである。


国家が(上述したように、本当は「国家」ではないのだが、面倒なので以下「国家」とする)人権侵害(国民に対するものであれ、外国人に対するものであれ)を隠蔽しようとすることに加担することは、国家による次なる人権侵害を招くことに加担することである。国家による人権侵害の被害者にならないためにも、また国家による人権侵害に加担する者という汚名を被らないためにも、われわれは国家による人権侵害を監視し、告発する利益を有する。青狐さんがこのところ強調しておられるように、南京事件における中国人への人権侵害の背景には、日本軍による日本軍兵士への人権侵害がまずはあった。最終的には「私」が被害者にならないためにも、国家による犯罪を告発することは大切なのである。それを「自虐的」だというのは、それこそ自虐的なふるまいというものであろう。

*1:シビリアンコントロール」ならここは「自国の軍隊」の方が正確だと思うし、「自国の政府」なら「シビリアンコントロール」より「民主的コントロール」の方が正確だと思うが、シビリアンコントロールは軍を民主的に統制するために必要な原則であるから、大意には影響しないだろう。

*2:水俣薬害エイズなど実例には事欠かない。