歩兵操典

日露戦争後の1909年に日本陸軍が歩兵操典を改訂し、銃剣突撃の重要性が強調されたことについてはこれまでも何度か言及してきた。これは日露戦争で日本軍が火力不足を露呈し、それを精神力で補おうとしたからだ、と説明されることが多いようである。しかし『逆説の軍隊』はこの説明を斥けている。また、日露戦争において日本軍が白兵戦で優位に立ったため、その長所を強調したのでもない、という。実際には、ロシア軍相手に白兵戦で苦戦したからこそ、改めて攻撃精神と白兵戦の重要性が強調されたのだという。「ところで聖人はなぜ声を大にして「中庸」を叫んだのであろうか? 曰く、これは正に人々が中庸でなかったために外ならぬ」という魯迅の言はここでもやはり真理であったということであろうか。


追記:同じく日露戦争後の1908年に軍隊内務書が改正されたが、その理由は表向き「日露戦争は、精神力が勝敗を決することを証明した」からだとされている。しかし著者はこれについても「日露戦争に関する逆転した解釈」だとし、実際には軍拡および在営期間の短縮によって徴集者が急増したこと、また「社会風潮の変化」*1による規律の乱れに対応するために精神力を強調したのだ、としている。
吉田裕などによれば、国民の間に芽生えつつあった権利意識は「服従」をこととする軍隊にとって脅威としてうけとめられたが、軍の中にもそうした国民の意識の変化に対応し、自発的な服従を可能にするような改革を志向した人物もいたそうである。だが、結局は中隊長を「厳父」とし下士官を「慈母」とする家族主義によって兵士の自発性を抑圧する道を選んでしまったわけである。
戸部良一は、家族主義がはらむ曖昧さが一方では軍紀の取締りをゆるくしたり不祥事を内々で処理する傾向を生み、他方では私的制裁などの行き過ぎを容認してしまう土壌となった、と指摘している。昭和陸軍の実態に照らして肯首できる指摘ではないだろうか。

*1:日比谷焼き討ち事件を引き起こした、また大正デモクラシーにつながる、「大衆」の誕生に対応した社会の変化のこと。