日本軍の戦死者に占める餓死者の割合

数日前にブクマしておいた記事。
「現代史家・秦郁彦 東条宰相「復権」は慎重に判断を」(Sankei Web 【正論】、平成18(2006)年10月15日[日])

サイパン陥落〜東条内閣崩壊から〕半年後、和平を模索しはじめた昭和天皇は個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねたが、東条は「陛下の赤子(せきし)なお一人の餓死者ありたるを聞かず」と開き直り、戦局は「今のところ五分五分」だとして、徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。


 終戦はそれから半年後のことだが、ガダルカナルニューギニア、レイテ、インパール戦など戦陣に倒れた約230万の兵士のうち、広義の餓死者は私の試算で60万に達する。内外の戦史に類を見ない高比率だ。天皇が不満どころか、不信の思いをつのらせたとしてもふしぎはない。

「陛下の赤子(せきし)なお一人の餓死者ありたるを聞かず」って、実際にはたくさん餓死していたわけだが。「餓島」と呼ばれたガダルカナルの戦いは42年から43年にかけてのことである。東條は田中新一作戦部長(当時)から「馬鹿野郎」と言われたことを忘れてしまったのだろうか。
昭和史の謎を追う』(文春文庫、下巻271頁)では「二〇〇万を越える戦没者の七割前後が広義の飢餓によって倒れたとする試算もあるくらいだが、実数は確かめようもない」としていた(初出は1991年の『正論』掲載論文)秦郁彦だが、ここでは60万という試算がなされている。もっとも、「広義の餓死」という概念自体が曖昧と言えば曖昧であり、きちんと検死された戦病死者などほとんどいないだろうから「実数は確かめようもない」と言えばその通りであり、「実数は確かめようもない」こと自体が兵士たちのおかれていた悲惨な状況を物語っているとも言える。230万中60万でも実に4分の1に達するわけであるし、はじめから食料を補給するあてもない作戦に動員されて餓死した兵士が相当数にのぼる、ということは間違いないわけである。