刑事犯罪に対する態度と戦争犯罪に対する態度の非対称性

これまで何度か書いてきたことですが、私は南京事件を(より一般的には戦争犯罪を)否定したり相対化したりする傾向と、刑事犯罪に関して厳罰化を要求する傾向との間に有意な相関関係があると思っています。多分、既発表の統計をあれこれあたれば相当程度実証的に主張することもできると考えているのですが、まあ私は社会学者でもないし、これまで何度も書いてきて「いやそんなはずはない」と反論されたこともないし、統計的な裏づけこそ(現時点で)ないけれども理論的な説明は与える準備が一応ある、ということでサボります。


刑事事件に関しては被害者の主張をはなから疑い、否認する容疑者の言い分を鵜呑みにする、なんてことはふつう考えられないわけです。むしろ、逮捕された時点で「あいつが犯人」と決めつけてしまい、弁護士が一生懸命弁護活動を展開しようものなら「人殺しの肩をもつのか」「被害者遺族のことを考えろ」といった声があがったりするのが現状です。にもかかわらず、旧日本軍の戦争犯罪に関しては、被害者および加害事実を証言する元日本軍将兵のことばを頭から嘘と決め付け、「やってない」「見ていない」といった証言は得々としてとりあげる人々がいるわけです。刑事犯罪で共犯のうちの1人が自白し、もう1人が否認しているといったケースでは、多くの人が自白の方を信用するであろうにもかかわらず*1


このようなことが起こるのは、「われわれ/彼ら」という切断が異なるところでなされるからだと考えることができます。刑事犯罪については「被害者=われわれ、加害者=彼ら」であるのに対し、戦争犯罪については「旧日本軍=われわれ、中国人被害者および日本人証言者=彼ら」とされるわけです。しかしながら、こうした切断は必然性を持つものではありません。推定無罪の原則を大切にするなら「容疑者=われわれ、警察・検察=彼ら」という図式で事件をみることも大切ですし、戦争において自分が「動員する」側ではなく「動員される」側であるという自覚があるなら旧日本軍の下級将校や兵士を、中国の兵士や民間人とともに「われわれ」の側に置き、日中双方の政治家や高級軍人を「彼ら」の側に置くことだってできるわけです。


刑事犯罪でも「被害者の供述を疑い、容疑者の供述を信じる」傾向がみられる類型があることが、ここで参考になります。その類型とは性犯罪です*2。被害者の供述が疑いの目で見られるにとどまらず、事件の主たる原因が被害者側にあるとする「被害者非難 Victim Blaming」まで発生することが珍しくありません。家父長的な秩序のもとでは、性犯罪は被害者女性というよりその女性を所有する男性への加害として理解されるので、「容疑者=われわれ、被害者女性=彼ら」という倒錯した構図が成立してしまうわけです*3


戦争犯罪の否認と性犯罪の場合の犠牲者非難の間にあるつながりを直感させるエピソードがあります。南京事件の生存者の1人、夏淑琴氏が東中野修道氏に対して名誉毀損で損害賠償を請求している裁判の開廷日に、否定論者が「史上最大の嘘 空前の歴史偽造 南京大虐殺」、「指名手配シナ人・夏淑琴に神罸 罪状 大嘘吐き」「シナ・中共の売女・夏淑琴に天罸を」などと記されたプラカードをもって現われた、という報告です。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=2720;id=sikousakugo
もちろん私が目撃したわけではなく、残念ながら写真なども現時点では確認できていないのですが、東中野氏を支援する当の本人がブログで「反日シナ人・夏淑琴を街宣糾弾するぞ!東京地裁前に集合だ!!」「日本を精神侵略する先兵として出廷するシナ人・夏淑金に、日本人の怒りを叩きつけ、シナ・中共の謀略を徹底糾弾しようではないか」などと呼びかけているのですから、上の報告が正確であることは十分考えられることです。(以下は実際にそのようなプラカードがあったと仮定し、だとするとつじつまがあう、という趣旨の主張です。)指環さんから情報提供をいただき、写真を確認することができました。コメント欄をご参照ください。
http://sakura4987.exblog.jp/3721343/


そもそも夏氏はかつて敵国であった中国、南京事件をめぐって利害が対立すると彼らが考えている中国の国民なのですから、彼女が南京事件について証言することを指して「嘘つき」とか「日本を精神侵略する先兵」と述べるのはまあ一応首尾一貫しているわけですが、「売女」と述べるのは本来意味不明です。彼らのロジックに従えば、中国人女性が中国政府の主張に反することを証言したときにこそ「売女」となるはずです。中国国民が自分たちに都合のよい発言をすることを当然視する手前勝手なメンタリティが透けてみえるとも言えますが、女性を侮辱しようとする際に「売女」という単語が相当のプライオリティでもって選択される(脈絡を無視してでも)、ということでもあるのでしょう。
ついでに言っておくと、南京事件否定論者がしばしば「シナ(人)」という呼称を使ったり、「中国人は嘘つき」といったヘイトスピーチを駄々漏れにしていることは、彼らの主張が国際的に受け入れられるわずかな可能性をゼロにしてしまうふるまいであって、彼らの主張が自己慰撫の手段でしかないことを如実に示していると言えましょう。


刑事犯罪については近年、被害者および遺族のケアが軽視されてきたことへの批判が高まり、遅まきながらいくつかの制度改革もなされています。被害者の言い分については、もちろん裁判において鵜呑みにされたりしてはならないにせよ、少なくともしっかりと聞き取り、捜査や裁判に反映させるべきだ…というのがコンセンサスになりつつあるわけです。ところが、旧日本軍の戦争犯罪になると、被害者(生存者)の証言を集める研究者・ジャーナリストを売国奴扱いする人間がいる。「バターン死の行進」に関する日本軍の責任を相対化しようとする雑誌記事を海外に紹介すると、「煽った」と言い出す人間がいるわけです。ネット上で南京事件について議論する際、私がもっぱら日本側の史料(それもなるべく公文書)に限定して利用しているのは、こうした事態への不本意な対応なのです。


筆の勢いというやつで多くのエントリとは文体が違っていますが、特に深い意味はありません。

*1:もちろん、強制や誘導による虚偽自白という問題はあって、個人的には旧日本軍の戦争犯罪よりも古くから関心を持っていた問題ではあるのですが、他方で多くの自白が真実を述べていることもまた事実です。

*2:物証に乏しい痴漢事件の場合、自白偏重捜査の下では誤認逮捕・冤罪が発生しやすいことを否定するものではありません。

*3:戦争犯罪のなかでも特に性暴力の告発に対して、被害者側の社会が積極的でないことが多い理由もここにあると言えます。