「われわれ/彼ら」図式の多様性

昨日のエントリへの補足です。
そもそも人間が「われわれ/彼ら」という図式でものを考えることが避けがたいことなのかどうか。これはこれで大きな問題だが、「われわれ/彼ら」図式を乗り越えた、という自己認識はしばしば隠れた「彼ら」を想定しているだけのことに過ぎないんではないか(人権思想が歴史的には「野蛮人」を排除して成立したことを考えても)。とすれば、むしろ「われわれ/彼ら」という図式でものを考えていることを自覚したうえで、その境界線は多様に引きうることを強調すべきだろう。


「われわれ/彼ら」の切断というのは基本的には「私が誰に共感するか」の問題なのだが、事実問題としては「利害の対立」と言い換えてもいいだろう。利害の対立軸などというものはいたるところにある。ある点では利害の対立する二つの集団が、別の点では利害を共にする、なんてことは普通にあるし、「いまのわれわれ」と「将来のわれわれ」の間にすら利害の対立はある。私が所属する集団は無数にあり、その各集団が別の集団との間に複雑な利害関係を持っているわけだから、私がもちうる「われわれ/彼ら」図式もまた実に多様であるわけだ。そしてそうした多くの「われわれ/彼ら」図式のうちどれが特権的に正しいのかを問うよりも、自分がどの「われわれ/彼ら」図式にコミットしているのかを自覚し、他の図式の可能性に開かれていることの方が重要だろう。


これに対して、「われわれ/彼ら」図式の多様性を隠蔽する効果を持つ(しかも多様性を隠蔽していること自体を否認する)のがもろもろのイデオロギーだ、ということになろう。「日本=われわれ、中国=彼ら」という図式でのみ南京事件を考えるなら、どれほど汚い手段を使って事件を否定してもかまわない、たとえ事件はあったとしてもそれに言及するやつは「彼ら」の仲間だ、となるのだろう。せめて「日本=われわれ、その他の世界=彼ら」という別の図式さえ目に入っていれば、稚拙な手法やヘイトスピーチ丸出しの否定論が「われわれ」の利益に反することくらいわかりそうなものであるが。
中国の主張する「二分論」というのも「日中の人民=われわれ、一部軍国主義者=彼ら」とするもので、たしかにそのような図式からみえてくるもの、可能になるものもあると同時に、それが別の図式を隠蔽してしまうことにも留意する必要がある。


もう一点。例のプラカードの件については写真も存在しているとのことなので、機会があれば個人的に確認させていただくこともできるかもしれない。それにしても「売女」という罵言が含意するものは実に大きい。例えば「売女」には定義上「買男」がいるはずなのだが、今日の日本で「買男」が罵倒語として(例外的に、問題提起のために使われることはあったとしても)通用していない、というダブルスタンダード。夏氏は日本人ではなく、南京事件否定論者はただの一度も夏氏を「われわれ」の一員として考えたことなどないのに(つまり、仮に夏氏が嘘をついているのだとしても、南京事件否定論者を裏切ったということは意味しないのに)「売女」という罵倒語が「有効だ」と考えてしまうのは、「売女」がスティグマであるのに対して「買男」がそうではない、という事情があるからだ。罵倒語は、その使用者がなにを人格上の傷と考えるかを反映している。ここのブログ主が私を含む投稿者に対して「オカマ野郎」と言ったときに明らかになったのが彼のホモフォビアであったように。
「売女」はスティグマだが「買男」はそうではないと考える人間にとっては、戦時強姦は戦略的な武器にすらなる。というのも強姦は被害者女性だけでなく、その女性の「所有者」たる男たちへの攻撃にもなるからだ(実際、被害国側でもその通りに考えてしまうことが非常に多い)。自国内での強姦は「われわれ」の一員を構成する男への加害となるため、「女性への人権侵害」という視点を欠いていたとしても一定程度の抑制はかかる(そして発生してしまった場合には、しばしば真の被害者がバッシングされることについては触れた)。しかし舞台が敵国ともなればこの「男たちの間の相互監視」すら機能しなくなってしまう。「売女」を罵倒語として選ぶことと、性暴力を犯罪としてしっかり認識しないこととは、いわば同根なのである。