再追記

「(他の条件が同じなら)大義のない戦争では軍記が弛緩しやすい」というテーゼはいかにももっともらしいし、戦争を批判するときに非常に便利でもあるのだが、これに対する反論を考えるとすると、「どんな戦争であれ、実のところ兵士が命をかけるのは大義ではなく、同じ部隊の仲間のためである」というものになるだろうか。実際、『戦争における「人殺し」の心理学』でも、兵士を動かしているもっとも重要な心理的要因は身近な戦友との絆である、とされていた。旧日本軍における本音と建前の乖離を示すものとしてしばしば援用される、「天皇陛下万歳、なんて叫んで死ぬ兵隊はほとんどいなかった』といった証言などもグロスマンの見解を裏付けている。
最近の事例だとアフガン駐留ドイツ軍で発生したスキャンダルにおいて、兵士の1人から「やらなければ『腰抜け』と周囲に見下されると思った」という証言があり、一種の同調圧力が背景にあると示唆されたことは、このような反論を支持しているようにも思われる。
だが、その種の同調圧力戦争犯罪を抑止する方向にもはたらきうるはずである。同じ戦争における同じ宣戦の同じ軍隊でも部隊によって軍記にずいぶんと違いがあるとすると(南京事件の場合にも、実際にそのような証言はある)、それは小隊なり中隊といったレベルの集団を支配している「空気」に違いがあるということであろう。
そうした「空気」の違いをもたらす要因として部隊長の資質やその部隊固有の体験といったものを考慮に入れる必要は当然あろうが、軍全体としての方針や教育、作戦そのものの性格は影響するだろうし、とすれば戦争そのものの性格(戦争目的の明確さを含む)が無関係ということはやはりない、と言えるんではないだろうか。自軍の犯罪の残虐さへの気付きのきっかけが、「教えられていた大義と実際の戦場のあり方の乖離」であったという証言は少なくない。