First Into Nagasaki、セカンドインプレッション

『ファースト・イントゥ・ナガサキ』についてのこのエントリの続き。あれこれとマルチスレッド的にやっているもので読み終わるまで待ってたらはじめの方を忘れてしまいそうで…。先日のエントリで「「惨状を目の当たりにして良心の呵責に苛まれるアメリカ人」といった予断を持って読んだとすると、かなり日本人にとっては厳しい結果となる本のようだ」と書いておいたけれど、どうやらこの予感は正しかったようである。捕虜たちへの取材(「バターン死の行進」の生存者も含まれている)に重点が置かれているから、だけではない。著者のジョージ・ウェラーが長崎への潜入を目論んだのはもちろん原子爆弾の威力について自分自身で確かめたかったからであるが、彼が「発見」したのは想像したほどの被害はなかった、ということだったからである。

Now came the leutenant's epilogue. "What do you think, Colonel," he said, "of the culture of a people who could drop such a terrible weapon on the people of Japan?"
I wanted to cut this experiment off early. I waited a moment. Then, as gravely as I could, I said, "To give you an honest reply, I would have to ask my own people. And of course I would have to begin with those who were walking to church on Sunday on Red Hill in Hawaii when your planes struck them."


Nagasaki was never, strictly speaking, "destroyed." Nagasaki had about 300,000 people, about the size of Worcester, Peoria or Tacoma. About 20,000 died right away, the majority by concussion from falling buildings or by burning in ruins, not by concussion of air or direct singeing. (...)
(p.17)
(いまや少尉のはなしはエピローグに至った。彼は言った、「大佐、あなたはこのような恐ろしい武器を日本人に対して投下することのできた人びとの文化について、どのようにお考えですか」と。私はこの実験を早く切り上げたかった。私は少し時間をおいて、できるだけ荘重に言った。「正直に答えるためには、私はアメリカ人たちに尋ねてみなければならないでしょう。そしてもちろん、ハワイのレッド・ヒルで日曜日に教会へと歩いている時にあなた方の航空機の攻撃を受けた人びとにはなしを聞くことから初めねばなりません。」


長崎は厳密な意味で「壊滅」させられてはいない。長崎の人口は約30万人で、ウースター、ピオリア、あるいはタコマほどの規模である。約2万人が即死したが、その多くは倒壊した建物内での圧死や焼死であり、爆風による圧死や直接焼かれたことによるのではなかった。)

The atomic bomb may be classified as a weapon capable of being used indiscrriminately, but its use in Nagasaki was selective and proper and as merciful as such a gigantic force could be expected to be.
(p.29)
原子爆弾は無差別攻撃に使用しうる武器として分類することができようが、しかし長崎における原爆の使用は目標を選別しており、適切であり、かくも強大な力の使い方としては最大限慈悲深いものだった。)

もちろん、著者は放射線被爆の長期的な影響については(当然のことながら)把握していない。また、著者が長崎に到着したのは爆撃から一ヶ月近くたってからのことであり、最も悲惨な部分は既に相当程度見えにくくなっていたと思われるが、その点をどれほど意識して取材していたかは不明である。人名についての明らかな誤記( Major General Tanikoetjie と、なにをどう聞き違えたのかよくわからない表記になっている)があるなど、事前の十分な準備もアシスタントも欠いた取材に限界があったことをうかがわせる徴候は見つかる。なにより、「原子爆弾」の新規さに幻惑されてか、たった一発の爆弾による被害だということの意味が軽視されているように思われる(通常の爆弾や焼夷弾で「2万人」を殺害しようと思えば、B-29の大編隊が必要だ)。
とはいえ、著者は「長崎の被害が些細なものであってほしい」と思っていたわけではない。彼が長崎に潜入した(鹿児島県鹿屋の特攻隊基地を取材した際に、お目付役の米軍将校を巻いて陸路長崎入りした)のは、なによりもマッカーサーを出し抜いて、誰も知らない原爆の威力を自分の目で確かめたかったからである。

(...) I had spent four years bucking the MacArthur backout (minus intervals in European and African fronts). This was my fight and I was going back to see it through.(p.20)
(私はマッカーサーの情報封鎖に逆らうために4年間(マイナス、ヨーロッパ戦線とアフリカ戦線にいた期間)を費やしていた。これは私の戦いであり、私は戻ってそれを最後まで見届けるつもりだった。)

筆者はマッカーサーが広島や長崎から報道陣をシャットアウトしているのは、注目が自分ではなくマンハッタン計画に集まるのを恐れてのことではないかと疑っており、被害をより軽微に見せかけるためにイカサマをする動機があったとは考えにくいのである。彼にもっとも強い印象を与えたことの一つは、爆心地に近い三菱の軍需工場で働かされていた連合軍捕虜の殆どが、塹壕に身を潜めていただけで助かったという事実のようである*1


撮影者が明記されていない(恐らく著者による)写真が18枚掲載されているが、その選択もまた著者の関心の相当部分が連合軍捕虜(明らかに食糧不足で痩せているのがわかる)に向けられていたことを物語っている。


to be continued.

*1:南京事件否定論との関連で述べたことがあるが、空爆の強大な破壊力は必ずしも犠牲者の数というかたちで現われるわけではない、ということの例証にもなろう。