宇都宮太郎大将日記、発見

忙しいのにこうニュースが続いたのでは身が持たない…。
朝日新聞、2月28日朝刊より。

3.1独立運動の鎮圧を詳述 朝鮮軍司令官の史料発見
(大阪本社第14版の見出しは「3・1運動鎮圧 克明に 宇都宮太郎大将の日記発見 /朝鮮人30人虐殺 隠蔽/「怨嗟は自然」懐柔工作」)


日本統治下の朝鮮で1919年に起こった3.1独立運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将(1861〜1922)の15年分の日記など、大量の史料が見つかった。独立運動への鎮圧の実態や、民族運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている。宇都宮は主に情報収集を任務とし、日露戦争前後に英国で世論工作に携わったほか、辛亥革命では三菱財閥から活動費10万円を提供させ、中国での情報工作費にあてた。旧軍の対外情報活動をはじめ、日本のアジア政策の裏面史を含む貴重な記録といえそうだ。


19年4月18日の宇都宮日記。堤岩里事件の処理をめぐって「事実を事実として処分すれば尤(もっと)も単簡なれども」「虐殺、放火を自認することと為(な)り、帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益と為り」とある(右ページ、17日の欄に記載)
 3.1独立運動が朝鮮全土に拡大し、朝鮮軍などが鎮圧する中で19年4月15日、「堤岩里事件」が起こった。宇都宮日記によれば、ソウル南方で日本兵が約30人を教会に閉じこめ虐殺、放火。宇都宮の知らぬ間に発生した事件だったが、朝鮮軍は発表で虐殺や放火を否認する。そこに至る経緯が日記に詳しい。


 「事実を事実として処分すれば尤(もっと)も単簡なれども」「虐殺、放火を自認することと為(な)り、帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益」となるため、幹部との協議で「抵抗したるを以(もっ)て殺戮(さつりく)したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す」(4月18日)。翌19日、関与した中尉を「鎮圧の方法手段に適当ならざる所ありとして三十日間の重謹慎を命ずることに略(ほぼ)決心」。実際、30日間の重謹慎処分となった。


 独立運動が始まった当初、宇都宮は従来の「武断政治」的な統治策を批判し、朝鮮人の「怨嗟(えんさ)動揺は自然」と日記に記した。そして、後の「文化政治」の先取りともいえる様々な懐柔工作を行った。朝鮮人の民族運動家や宗教者らと会い、情報収集や意見交換に努めたことが日記から分かる。


 日記以外の史料は、書簡5000通、書類2000点など。日露戦争期に英国公使館付武官だった時に、ロシアの革命派らを支援して戦争を有利に導こうとする「明石工作」を、資金面で支えたことを示す小切手帳もあった。
(後略)

これをうけてWikipediaの「堤岩里事件」についての記述が次のように変化(仕事が早い…)。

(旧)
提岩里事件(ていがんりじけん)は、日本統治下の朝鮮で三・一独立運動中に起きた事件。
[編集]概要

10名ほどの憲兵隊が提岩里の教会に、小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。これをきっかけに教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。数で劣る憲兵隊が発砲し多数の死者が出てしまった事件。教会もその後近所からの失火により焼失した。
提岩里事件で女性や子供が死亡したとの誤った情報が、『朝鮮独立運動之血史』(朴殷植)にあるが死亡者の中に女性や子供はいないことは提岩里の慰霊碑の名前などから確認されている。[要出典]
韓国では教科書などで史実として誤って記載されており、多数ある反日教育の記載のうちの一つとなっている。[要出典]


(新)
提岩里事件(ていがんりじけん)は、日本統治下の朝鮮で三・一独立運動中に起きた事件。
[編集]概要

事件当時の日本の公式文書では、 「憲兵隊が提岩里の教会に、小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。これをきっかけに教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した」とされていた。
しかし2007年に発見された、当時の朝鮮軍司令官、宇都宮太郎の日記によれば、事件は日本兵が30人ほどの住民を教会に閉じこめたあと殺害、放火したもので、その「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども」それでは「虐殺、放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益」となるという判断から、幹部と協議した結果「抵抗したるを以て殺戮したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す」。とあり、住民の抵抗は存在せず、火災は軍による放火であったことがわかった。関与した中尉の処分は30日間重謹慎処分とされた。

この中尉に対して軍法会議が下した無罪判決はアジア歴史資料センターで閲覧することができる。レファレンスコード= C03022465000。