どこかで聞いたようなはなしが…

「good2ndの日記」さんの「『滅んでもよい国』」より。

きっと旧日本軍の資料はスルーして「真実」にしちゃうであろう映画のブログに、こんなコメントがついてるのを見つけました。

今年は日本にとって本当に正念場です。ここで負けたら日本は永遠に「野蛮・残虐な国家、国民」との烙印を押され、「日本悪し」の世界世論が作られ、これから先、外交・経済・軍備等、何につけても日本がすることには「それみろ、やはり日本は危険な国だ」と叩かれ、「滅んでもよい国」として世界中から扱われることになる、そんな危機感を強く感じます。
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(中略)
コメント主の「佳子」という人は、アウシュビッツの故にドイツは「滅んでもよい国」と考えているのでしょうか。原爆投下の故にアメリカは「滅んでもよい国」と考えているのでしょうか。もしそうでないとすれば、南京事件の故に日本が「滅んでもよい国」として扱われなければならないと考える理由がわかりません。

なるほどその通りです。もう一つ否定論者に共通する思考パターンとして「日本人はそんな残虐行為をするような残忍な民族ではない」「虐殺の存在を認める奴らは、我々の祖父を鬼畜だというのか?」といったものがありますが、宿命論的な傾向が共通しているようにも思えます。
この議論のおかしなところはいくつもあるのですが、一番表層的なレベルでいえば「この60年、日本は南京大虐殺を引き起こしてきた国家だと国際的に思われてきたのに、実際問題として滅ぼされてないじゃない」という点ですね。まだ露見していない悪事を隠そう、というのならいちおうこの論法も理解可能ではあります。しかし相手も、そして第三者も、すでに「虐殺はあった」と言い続けているわけです。その状況で「たしかに起こしました」と言うのと「いいや起こしていない」と言うのと、どちらが「滅んでもよい国」扱いされるおそれを強めるでしょうか?

南京事件を否定したくてたまらない人々の間には、暗黙的にであれ、こういう感覚が共有されているのではないかと思えます。彼らにとっては、過去に悪を為した国は永遠に悪であり、いつまでも非難されて当然であり、滅んでもよい、そんな風に思えるのではないかと。

どこまで本気なのか…という問題はありましょう。しかしこのような発言を行なう以上、good2ndさんが指摘されるようにある種の国家に対しては「滅んでもよい国」という判断*1を行なう用意がある、というのは死刑容認のロジックに通じるものを感じますね。
そういえば、関東大震災時の朝鮮人虐殺に関して、同じようなロジックで「「あなたの子をアウシュビッツに送らないと誰が保証してくれよう」という懸念を、もし可能なら、薄めておきたいのだ」とおっしゃった方もおられました。

ところで、やはりコメント欄の「桜北米派遣軍」って、キモイ…。

各所に英語でコメントする行為をさして「桜北米派遣軍、出撃!」てな調子ではしゃいでいたわけですな。気分はもう戦争
どうせ内輪ではしゃいでいるところなんて読まれまい、と高をくくっているんだろうと思ったので、ここで暴露してきました。もう下火になっているようでもっと早くやっておけばよかったと後悔しましたが。

*1:念のために言いますが、ある国家の特定の政治体制を打倒しても構わないと考えることと、その国家が滅びても構わないと考えることの間には大きな、非常に大きな違いがあります。