戸井田議員、その後

最初に、3月22日分のコメント欄が字数制限を超えてしまったので、最後のコメントにここで返答をば。

プンプン 『日本を悪と思い込みたい(思想的な)理由をお持ちなのでしょうか。歴史の検証は正確に行うべきことで、思い込みや思い入れの上に組み立てるものでは有りません。悪魔の証明は出来ません。無いことを証明出来ないのですから、有ったとされることを、よくよく検証してみられることをお勧めします。冷静さと慎重さこそが知るための必須条件であると考えています。』 (2007/04/06 01:23)

ハンドルは違っても書くことはまさに「判で押したよう」ですなぁ。どっかにテンプレ倉庫でもあるんでしょうか? 「反日」と「悪魔の証明」にお好みのスパイスを加えるとネトウヨ南京事件についてのコメント一丁あがり、と。歴史学に限らず「ある(あった)/ない(なかった)」が研究者間で議論されているトピックというのはいくつもありますが、「ない(なかった)」派の研究者が「ないことを証明しろというのは悪魔の証明の要求だ、だから証明する責任はそちら側にあって私にはまったくない」なんて言ったら、学会で笑いものになることは必定です。「歴史の検証は正確に行うべきことで、思い込みや思い入れの上に組み立てるものでは有りません」ってのは戸井田議員にこそ向けられるべき言葉である、というのが私の言いたいことなんですけどね。


ここから本題。戸井田とおる議員の「丸坊主日記」が更新されているのでチェック。


第4回南京問題小委員会を取材する記者

小委員会終了後、記者懇談会をすると、必ずと言っていいほど聞かれる事は
南京虐殺はあったんですか?無かった?結論はいつになりますか?」
と言うフレーズです。会合の度にきちんと史料を渡しているのに、史料を読んでいるのかと聞いてみたい。史料に目を通していたら、こんな質問が出てくる筈が無い。

彼らの仕事は「南京事件はあったか、なかったか」を取材することではなく、小委員会がどういう結論を出すかを取材することなんだから、しかたないんじゃないですかね。

南京問題にしても、慰安婦問題にしても、何かシナリオがあって、それと違った台詞が出て来て困惑している大根役者に思えてくる。記者諸君にも頭にある南京に関する思い込みを取っ払って私の提供する史料を見て欲しいと思う。

これを読むと、「何かシナリオがあって」云々は戸井田議員にこそあてはまることがよくわかります。史料を提供したといっても、例えば偕行社の『南京戦史資料集』2巻をそっくりコピーして渡した、なんてことはないわけですよね? 「国際連盟での決定的史料」(実はちっとも決定的じゃないんですが)なるものをみてそこから直ちに「南京事件はあった」とか「なかった」という結論を出すとしたら、それこそ「シナリオ」に沿った思考しかしていない証拠です。「これを読めば誰もが否定論を支持するに違いない!」と思っていたのに「それと違った台詞が出て来て困惑している」のでしょうか。

解散後、ところで、
「旧南京市街ってどのくらいの広さか知っている?」と聞くと
「知りません。」
悲しくなってくる。

戸井田議員がどう認識しているのか、非常に気になります(笑)


余談ですが「閑話休題 2」と題するエントリに、例の「狩猟民族/農耕民族」というステレオタイプが。この手の人々の頭の中では、欧米社会は狩猟採集社会からいきなり工業社会に移行したことにでもなってるんでしょうか?