負けっぷり

久しぶりに立花隆「メディア ソシオ-ポリティクス」にアクセスしてバックナンバーを読んでいたら、次のような一節が目にとまった。

私にいわせれば、いまさら東京裁判の否定だの、A級戦犯に罪なし論などを並べ立てるバカ連中は、あの戦争に敗北した事実を男らしく受け止めることができない連中だとしかいいようがない。
いまさらそのような泣き言を並べるくらいなら、どうしてあの戦争の最後の場面で、本当の一億玉砕をやってのけるくらいの覇気を見せられなかったのか。
あれだけ文句なしの大敗北を喫した以上、負けのすべて(先のすべてのプロセス)を堂々と認めるべきである。負けたら負けたで、負けっぷりはよくすべきで、あれはいやだの、これはいやだのといった泣き言をいつまでも並べ立てるべきではない。
どうしても負けの一部を認めたくないのなら、もう一戦やることを覚悟して文句を並べるべきである。
このあたり前のロジックが、どうして小泉首相にはわからないのだろうか。

保守派が「あの戦争」をきちんと反省する理路があるとしたら、その一つはこうしたものになるのだろう。私が思うに、彼らが日本の植民地支配を免罪(積極的に非難しない〜完全に正当化、までのグラデーションを含む)する理由の一つは「だって、向こうが弱かったんだからしかたないだろう」という意識(ないし無意識)なのではないだろうか。保守のモラルにとって「強さ」は道徳的な善であり「弱さ」は道徳的な悪だからである。対アメリカに比べると対中国では歴史認識問題でやたら強気なのも、「負けたのはアメリカに対してであって中国に対してではない」という誤った思い込みがあるからだろう*1。しかし仮に「アメリカに負けたのだ」という前提をとるとしても、戦後処理は日中戦争もひっくるめてアメリカ主導で行なわれたのであり、いまさらぐちゃぐちゃ言うのは「男らしくない」ということにかわりはない。リベラル派は「男らしくあれ」と語ることを忌避する傾向があるし、じっさい言ってしまうとダブスタになるわけだが、保守派内部でもっとこういう声が挙がらないのは不可解である。
好意的に考えれば、ある程度以上の年長世代には、一部の将兵に「玉砕」をさせておきながら自分たちは生き残ったという負い目があり、その負い目が歪んだかたちで「負け惜しみ」として現われている、という見方はできるかもしれない。しかし「玉砕」を強いられたのは決して日本軍将兵だけではない。沖縄(とサイパン、そして旧満州の一部)では非戦闘員もまた「玉砕」を強いられたのだ。沖縄(とサイパン、そして旧満州の一部)に対する「負い目」を「本土」の戦中世代がきちんと感じてきたかというと、極めて疑わしい。「自決命令」をめぐる修正主義や、残留孤児に対する冷たい対応などはこの疑問に裏づけを与えてくれる。

*1:仏印進駐を止めて対米戦争を回避したとしても、中国との消耗戦には結局堪えられなかった。国内の物資不足は大戦末期になってはじめて起こったのではなく、日中戦争開始早々にはじまっている。もちろん、大戦末期にはより深刻化したけれども。