大沼本を「高く評価」したりするのはどのような立場から可能になるのか

というのが、このエントリに対するbewaadさんのご批判を読んで改めて考えたことです。もとのエントリ中で明記しておかなかったのはまずかったけどその後コメント欄で「私個人はといえば、大沼氏に批判されるに値しない者にすぎませんが」と補足しておいたように、私のエントリは第一義的には“大沼氏に批判された者からの反論”でも自己弁護でもありません。というのも私は大沼本における批判対象(の一つ)である左派系のアクティヴィストの一人じゃないから。「批判の余地がない」のではなく「批判の対象となるための土俵に上がってなかった」から。したがって私には大沼本で批判されている左派アクティヴストに代わって反省する資格もないと同時に、「うむ、なるほど」と膝を打つ立場にもないわけです*1。もちろん、この批判を「ネタ」扱いするつもりもありませんし。
具体的な論点について。まず「では女性基金以前にどれだけのお金が届けられたのでしょう」という点。テクニカルに言えば「アジア女性基金が存在するという現実の下で左派系アクティヴィストが集めた金額のトータル」とアジア女性基金が集めた金額とを比較するのはフェアではありません*2。とはいえ、仮にアジア女性基金が流産したとして、その場合に左派系アクティヴィストたちが集め得たであろう金額がアジア女性基金のそれに匹敵するということは極めて考えにくいので、「より大きな額を集める」という成果を一定程度*3女性基金が達成したことは否定しません。しかしなぜ左派系アクティヴィストたちの集金力の弱さだけが問題にされねばならないのか? 大沼氏も「経済界からの募金」がまったく期待はずれだったことを指摘しています(39ページ)。「補償」はとりあえず脇においたとして、元慰安婦たちが経済的に苦境にあるというのなら、例えば偕行社(および水交社)や各地の戦友会などが率先して支援のためのイニシアティヴをとって然るべきではなかったのか? 旧軍関係者やその擁護者の中には「慰安婦は兵隊にとって苦楽を共にした仲間のようなもの」だとか「心が通じることもあった」などといった美化されたイメージを語る者もいます。当事者(元慰安婦を含む)にとっての主観的現実としてそのように語りうる側面があっただろうということは否定しないけれども、それを本気で主張するならなぜイニシアティヴをとらないのか? 大沼氏が「およそ学問的議論の対象にならないと考えている」と評した「慰安婦=公娼」論が国会議員の間でまかり通り、みずから"The Facts"と称しながらその実明らかな虚偽を含む意見広告にそうした議員たちが名を連ね、かつ(首相就任以前の言動から判断すれば)明らかにそうした議員に近い認識の持ち主が首相となる…といった事態を招来し許容しているこの社会のマジョリティは、大沼本において明示的な批判対象にこそなっていないものの、より大きな責任を負っているのではないのか?
bewaadさんの表現を借りるなら「要するに結果を出さなかった*4左派系アクティヴィストに対して、ああすればよかったとか、こうすればよかったとか、そのような批評をするのは簡単なこと」ですが、「大沼本において批判されている左派系アクティヴィストたちがこの本をどう読むべきか」と、「その他の読者がこの本をどう読むべきか」は自ずから違ってくるだろう、ということです。

*1:アジア女性基金設立前後の左派アクティヴィスト批判に関する限りは。「これから」のはなしとして考えるなら、コメント欄で書いた「だからこそ今後も同じようなことをくりかえさないように…という問題意識は重要だろうと思います」というのが基本的な認識です

*2:女性基金の設立が云々されるほどの国民的関心事となり、かつ女性基金が成立しなかった場合にどれ程集め得たか、が問われるべきでしょう

*3:当初の大沼構想とおり「政府も償い金に拠出する」形態をとっていた場合、逆に完全に民間の基金としていた場合に想定される金額との比較抜きでは、無条件の評価はできません。

*4:これはもちろんことばの綾というやつで、大沼氏ですら裁判闘争の結果がゼロだとは言いますまい。