『人間の暗闇』

ウィーン生まれ、開戦時にはハンガリー国籍でのちイギリスに移住したジャーナリスト、ギッタ・セレニーがトレブリンカ収容所長だったフランツ・シュタングル*1に対して行なったインタビューを書籍化したもの。原著は英語で1974年に刊行、原題は Into That Darkness -- From Mercy Killing to Mass Murder で、シュタングルがナチ政権下でのキャリアを障碍者の“安楽死”施設ではじめたこと(この期間についてももちろん聞き取りがなされている)、それがトレブリンカへと続く道の始まりだったことを示唆している。ただし邦訳はドイツ語版からで(二人の会話もドイツ語で行なわれた)、ドイツ語版タイトルは『地の底にて 死刑執行人との対話』の意。2005年に翻訳が出てからほどなく買っておいたのだが、なかなか手にとる機会がなかったもの。


本書の特徴の一つは、シュタングルとの対話と平行して、ホロコーストおよび戦後のナチ戦犯に対するヴァチカンの態度についての探求が描かれている点。いまとなってはそれなりに知られていることであるとはいえ、原書刊行当時には大きな反響を呼んだのではないかと思われる。
シュタングルとの対話に劣らず興味深いのは、シュタングル夫人へのインタビュー(および手紙のやりとり)である。自分を騙し、見て見ぬ振りをする過程がそれなりに率直に語られているからである。シュタングルは最初から“自分が自由意思で行なったことについては責任を負うつもりがある”と胸を張ってみせるのだが、犠牲者の「顔と名前」を想起させようとする著者の問いは容易にはシュタングルに届かない。次のような対話が交わされたのは、ようやく最後の面会時においてであった。

〔シュタングル〕「(…)だが、神に近づこうという目的を持っても、人間にそんなことができるのかね? 神になれるわけないじゃないか? そうは思わんかね?」
 〔セレニー〕「それは人によって、それぞれに違うとは思いませんか? あなたの場合には、真実を探求するということが、それにあたるとは思いませんか? 自分の内側に向き合うということですよ。」
 「自分の内側に向き合う?」
 「そう、自己に向き合う、ということです。この面接もはじめからそれを目的にしてきたんじゃないんですか?」
 彼の答えは、まるで機関銃のように自動的に返ってきた。その声には完全に抑揚がなかった。「私は、自分自身の意思でやったことに何らのやましさも感じていない。」それは彼が今までにも、幾度となく繰り返してきたフレーズだった。(…)しかし今度ばかりは、私は返事をしなかった。彼は私の反応を待った。部屋は静まり返った。「私自身は、誰一人としてわざと人を苦しめたことはない*2。」(…)しかし、この面接が始まって以来、私ははじめて助け船をだすことをやめた。時間は過ぎていった。彼は両手で机の角を握り、まるで何かにしがみ付くかのように力を込めていった。手の骨が白く浮き出していた。再び静まり返り、私はただ待ち続けた。「確かに私はあそこにいた。」長い時間が過ぎて、まるで諦めたかのような疲れた乾いた声で彼は口を開いた。この短い言葉が出るまで、ほとんど三〇分のあいだが必要だった。
 「あぁ、つまり、事実としては私にも罪があった……。何故なら……。私の罪とは……。罪だなんて、この面接のあいだにはじめて言った言葉だな……。」彼は口を閉ざした。

共産中国の戦犯収容所で行なわれた「認罪教育」を思わせるやりとりである。もうひとつ連想したのは、先日NHK BShiで放映された「証言記録 兵士たちの戦争 第1回 西部ニューギニア 死の転進〜千葉県・佐倉歩兵221連隊」で証言しているある元兵士のこと。彼は現地住民(非戦闘員)殺害の罪に問われ、オランダ(ニューギニアのうちオランダの植民地だった地域だった)による戦犯裁判にかけられ、有罪判決を受ける。彼が事情聴取のため司令部に連れ帰った非戦闘員を殺害するよう、上官(のち戦死)が命令したのであった。ナレーションでは彼が「戦後、ニューギニア独立運動を弾圧しているオランダに裁かれる」ことに対して釈然としない思いをもったことが説明される。「大東亜解放」の宣伝を素直に信じた、知的な青年だったのだろう。しかし彼はつづけてこうも言うのである。

(…)だがそれとは別に、じゃあ私が逮捕・連行した住民の処刑の責任は誰が負うのか? といった場合に、明らかに私は日本軍の一員ですから。しかも連行した、ね、直接の責任者ですから。その責めは負わざるを得ないですよ。そうでないと、殺害された住民は……その……誰も責任を問われなくていいのか、ということになっちゃうでしょう?

BC級戦犯裁判に対する(元被告によるものを含む)批判がどうしても裁判そのものへの恨みつらみにおおわれ*3、被害者*4の視点を無視していることが多いだけに、見ていてたいへん感銘を受けた。この元兵士がどのようにして戦後60年を過ごしてきたのか。赤の他人の人生に強い関心を喚起されるひとことであった。

*1:1967年逃亡先のブラジルで逮捕され、1970年の戦犯裁判で終身刑の判決を受け、控訴の結果を待つあいだに著者のインタビューを受ける。最後のインタビューの翌日に死亡。

*2:実際、生存者を含む関係者の証言によれば、シュタンゲルがとりたてて嗜虐的な人物だということはなかったようである。引用者注。

*3:もちろん恨むだけの理由があることも多いのだが、あれこれ読んでいると裁判制度への無理解に基づくものもあったりする。

*4:過酷な取り調べ、不公正な裁判、重すぎる量刑、さらには人違いの逮捕といった批判はよく聞くけれども、そもそも被害事実が存在しないでっちあげ事件だったというケースは聞いたことがない。ということは、たとえ裁判に問題はあったにしても、現に被害者は存在したわけである。