On Reversibility

上のエントリで次のように書いた点について。

比較対象のうち一方は被害者側の生存者の証言であり、他方は加害者(と目される)側の証言である。それを「「思い違い」の可能性など」のひとことで同じ土俵に載せてしまうのは為にする懐疑主義としか言いようがない。

「本館」の方で私はしばしば自白強要による冤罪事件について(主として浜田寿美男氏の業績に言及しつつ)語っているわけだが、これはもちろん(1)国家権力対私人、という圧倒的にパワーバランスが異なる当事者間の事案であり、(2)身柄を拘束されるという異常な環境で行なわれる「証言」という事案である。私人が国家権力により訴追された場合にはこうした事情を考慮する必要があることはいうまでもない。しかしそうでない場合、だれがもっとも強く「嘘をつく動機」をもつかと言えば、「実際に加害者である人間(およびそれに自己同一化する人間:以下略)>>(そこそこの壁)>>被害者を偽装しようとする人間>>(かなり高い壁)>>実際の被害者」だというのは、およそ議論の余地のない常識だろう(「>」の数は別にこれといって意味のない、単なる「印象」の問題なのでスルーしていただきたい)。「被害者である」ということはこの社会(というかどの社会でも)においてスティグマとなりうるので必ずしも好んで被りたいレッテルではないし、被害者を僭称することで獲得できる利益がそれほどでもない場合はなおさらである。個人レベルの心理においても「被害者である」ことを認めるのはしばしば容易なことではない。これに対して、加害者であることを否認するのは常に(と言って過言でないほど)あまりにも容易なことである。