『占領と性』(追記あり)

年末に立てた「積んどく解消計画」ですが、結局一冊だけ読了できました。
恵泉女学園大学和文化研究所編、奥田暁子・早川紀代・平井和子・出岡学・荒井英子・牧律・加納実紀代著、『占領と性 ―政策・実態・表象』、インパクト出版


目次

  • まえがき 5
  • 第一部 政策と実態 11

 GHQの性政策―性病管理か禁欲政策か 奥田暁子 13
 占領軍兵士の慰安と買売春制の再編 早川紀代 45
 RAAと「赤線」―熱海における展開 平井和子 79
 狩り込みと性病院―戦後神奈川の性政策 出岡 学 119

  • 第二部 意識と表象 147

 キリスト教界の「パンパン」言説とマグダラのマリア 荒井英子 149
 山室民子にみる自律意識と純潔教育 牧 律 179
 「混血児」問題と単一民族神話の生成 加納実紀代 213

  • 年表 261
  • あとがき 272


ひとことでいえば、総じて「平和的占領」として(日米双方で)記憶されている連合国(実質アメリカ)の日本占領をジェンダー論的な観点から見直す、ということになります。というわけで第一部ではかなり批判的な分析が占領政策に対してなされるわけで、これは従来の記憶とのバランスを考えればもっともなことでしょう。ただ、日本軍も他国を占領していたことがあるわけで、その占領政策との比較という問題まで視野に入れるとはなしが違ってきます。とはいえ、それは本書の目論見を超えたはなしです。
米軍の売買春政策に関してはこれまで田中利幸さん、林博史さんの研究を紹介してきましたが、やはり「本音」にずるずるひきずられるだけでなく「建前」を貫こうとする意思において、かつての日本軍と米軍には無視できない違いがあったな、という意を新たにしました。米軍が買春を事実上黙認していることに従軍牧師や、さらには一兵卒が上層部に手紙を書いて抗議したりする。軍の外部から、またアメリカの外部からだけ圧力はやってくるわけではなく、内部から買春批判が起こり、それが上層部の意思決定に影響を与えているわけです。
もちろん、第一部の各章が問題にしているように、米軍は性病を「売春女性」の問題としてのみとらえていたというジェンダー・バイアスはあります。その結果、「狩り込み」などでもっぱら女性のみが人権を侵害されることになる…という問題はあります。


さて、いちばん期待していたのは第二部の荒井論文、ついで加納論文です。これについては後刻追記します。現在発売中の『正論』に掲載されている、水島総監督の「製作日誌」の末尾に、雇った「外国人」俳優の態度が悪く、しかも「日本の女はモノにしやすい」といったことをフレンドリーに話されるので憤慨しつつ「これが戦後日本だ」と思った…なんてことが書いてあって、いまだに尾をひいている問題ですね。


1月12日追記
ようやく追記する時間がとれました。
キリスト教界の「パンパン」言説とマグダラのマリア」は、本書に収録された他のいくつかの論文同様、占領期における日本のキリスト教界の売買春に対する態度への批判的分析である。結論部分に曰く。

 キリスト教会は、政府の命じる占領軍慰安所設置と「国民道義」の高揚のはざまで、「頽廃の象徴」とみなされた「パンパン」に対して、取り締まりと収容以上の「救済」はなし得なかった。戦時中の教会のあり方に対する反省もないままに、戦後すぐ「売春内閣」に連座して、再び国家の要請する「道議高揚」に応えながら活路を見出していった結果である。
(174頁)

「売春内閣」に連座とは、「国民総懺悔」を訴えた東久邇首相が加賀豊彦(日本基督教団時報国界の下部組織、戦時活動委員会の委員長)との面会時、「基督教を通じて、国民道義の高揚を」と要請し、キリスト教団側も大喜びでこれに応えようとしたことを指している。基督教へのこうした“期待”の背後には勝者・強者たるアメリカへの迎合が見てとれるが、日本の右派がアジア各地の日本占領地での「協力」や「日本への好意」を額面通りに受けとろうとするのも、こうした迎合を否認したいという意識によるのかもしれない。
本論文で分析されている「キリスト教界の「パンパン」言説」は、今日の視点からみれば露骨に差別的であるわけだが、その差別性が結局は売買春を「売春する女」の問題としてもっぱらとらえようとする視線(GHQの性病対策をも支配していた視線)に起因するのだとすれば、それが今日どれほど克服されているかははなはだ疑問である。
聖書学に興味のあるひとにはよく知られていることだが、実のところ福音書にはマグダラのマリアを娼婦とする記述はない。「パンパン」を「マグダラのマリア」になぞらえる表象についても、キリスト教史においてマグダラのマリアが娼婦とされてゆく過程(とその背後にある性観念)との関連で分析されていることを期待したのだが、それは一編の論文には過ぎた期待なのだろう(もちろん、「マグダラのマリア=娼婦」が神学的創作であることは言及されている)。
本論文ではキリスト教界における「パンパン」言説だけが問題にされているが、より普遍的な視座からいえば「敗者の側の男たちが、勝者の側の男たちに“なびく”同胞の女をどうみるか」という問題として、従軍「慰安婦」問題の戦後を考えることにもつながる問題として考えることができるだろう。


加納論文はタイトルから想像できるように、小熊英二の『単一民族神話の起源』をふまえて、戦後生まれた「混血児」についての報道(独立後に盛んになる)と「単一民族神話の生成」との関連を探ろうとするものだが、大日本帝国が“アジアの帝国”だったことをふまえるなら、(主として)アメリカ人との間の「混血児」についての表象と「単一民族神話」とを一足飛びにつなげるのはなかなか難しいように思う。太平洋戦争期の「南方」への眼差しなどと比較しつつ分析してゆく必要があるのではないだろうか。