朝日の捏造、という捏造(追記あり)

否定派の常套句の一つに「朝日新聞南京大虐殺を捏造」したというものがあって、朝日叩きの主要なネタの一つになっているのはみなさんご承知のとおり。ところが、「朝日新聞が“慰安婦20万人強制連行説”の源泉」というのがガセであったのと同じく、否定派による朝日の南京事件報道批判にも捏造っぽいものが多々ある。先日、「朝日が南京事件犠牲者三〇万人説を報じた」「最近になってようやく三〇万人は多過ぎると言い出した」と書いてあるブログを見つけたので*1調べてみると、実際には南京の大虐殺記念館のオープンを伝える記事(1985年8月16日)のなかで引用されている南京市長の発言の中に「30万人」という数字があっただけだったりする。また、「最近になって」どころからすでに1991年1月19日夕刊の「窓・論説委員室から」に、次のような一節があったりするのである。

 歴史学者秦郁彦さんは「今となっては正確な被害統計を得ることは、理論的にも実際上も不可能に近い」と前置きして、被害者は4万人前後と推定している(中公新書南京事件』)。
 いま大事なのは、数にこだわって事実をうやむやにしたりせず、歴史の重さを日本人すべてが謙虚に受け止めることだ。

法華狼さんが最近紹介されているのも、ネットでよくみる「朝日の捏造」ネタだ。『これでも朝日新聞を読みますか?』なる本をとりあげた「くっくり」氏のエントリで「朝日の捏造」の事例として「1984.8.4 「南京大虐殺」を捏造」なるものが挙げられている。そもそも「南京大虐殺」はあったんだから…と言ってしまうとはなしが進まないので当該の記事を検証してみることにしよう。
と言いたいところなのだが、asahi.comのデータベースサービスで検索した限りでは、1984年8月4日に南京事件関係の報道はない。あるのは翌5日である。あるいは地方版では4日に掲載されたのかもしれない。以下、8月5日の記事を指しているのだと仮定してはなしを進める。

南京虐殺、現場の心情つづる 元従軍兵の日記、宮崎で発見


 日中戦争中の昭和十二年暮れ、南京を占領した日本軍が、多数の中国人を殺害した「南京大虐殺」に関連して四日、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城二十三連隊の元上等兵(当時二三)の、虐殺に直接携わり、苦しむ心情をつづった日記と惨殺された中国人とみられる男性や女性の生首が転がっているシーンなどの写真三枚が見つかった。日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だけに、事実を物語る歴史的資料になるとみられる。
 この日記は、縦十九センチ、横十三センチで約四百ページ。昭和十二年の博文館発行の当用日記が使われ、元日から大みそかまで毎日、詳細に記録されている。南京城門にたどりついた十二月十二日には「いよいよ南京城陥落の日!!(略)日章旗は晩秋の空高く掲げられたのである。(略)一番乗りをなし得たことを我らは生涯の誇りとして男児の本懐を語ることが出来るだろう」と感激ぶりをしたためている。
 だが、十五日には「今日、逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称=べっしょう)約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に婉々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行しだした様子」。惨劇が始まったことを記録している。
 二十一日。「今日もまた罪のないニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ。これでたたらなかったら因果関係とかなんとかいうものは(意味不明)ということになる」。自ら手を下したことを認めるとともに後悔の念をみせている。さらに虐殺が日常化していることもわかる。
(中略)
 写真はアルバムに三枚残っていた。名刺判白黒で、一枚は人家と思われる建物の前で、十二人の生首が転がっており、その中央には女性らしき顔も見られる。また、残り二枚は衣服を着たままの女性と老人の死体。撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に「南京虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという。
(後略)

都城歩兵第23連隊は第6師団歩兵第36旅団を構成する二つの連隊のうちの一つで、歩36旅の旅団長は後の第32軍司令官牛島満少将(当時)。実はこの記事をめぐる顛末は「副産物としての珍事件」という見出しのついた節で秦郁彦の『南京事件 増補版』第十章でとりあげられている(『昭和史の謎を追う』上巻でも「南京事件をめぐるリング外の決闘で、一番奇怪で、後味が悪い」事件として言及されている)。この件についての連隊関係者の主張はこちらを参照。「朝日の捏造」説のネタ元である。


さて、秦郁彦によれば事態は次のように展開した。2週間後に元大隊長が先頭に立って日記の持ち主を捜すための「現地調査」が始まる。「しかし朝日が取材源を秘すため出身地や没年を少しずらしていたため、心当たりの別人を該当者と思い込み、新聞の自作自演を疑った連隊会は、宮崎支局へ乗りこんで抗議と訂正を申し入れ」た。その後、都城連隊が虐殺への関与を否定した声明の扱いをめぐって争いは長期化する。問題は次の部分。

ふしぎな話だが、この時点までには連隊会も『世界日報』も、問題の日記が宇和田弥市のもので、一九七八年に連隊史を作ったさい、遺族から問題の日記を借り出し、二カ所を引用したことに気づいていた。

つまり日記はホンモノだった(すくなくとも連隊関係者は1978年にはホンモノとして扱っていた)のである*2秦郁彦はこう推測している。

どうやら真相は、連隊会からただされた宇和田未亡人が、面倒を恐れて日記は焼き捨てたと述べたこと、その前に連隊史のため宇和田日記を借り出して読んだ人が、読んだと言いそびれたことにあったようだ。

つまりこの一件は、朝日による捏造の事例であるどころか、旧軍関係者が虐殺の証言を押さえ込む努力をしていることを示す事例なのである。なお、昨日のエントリで引用した「連隊会は第六師団を担当した編集委員の努力に感謝したという話が伝わっている」云々は、このエピソードについての紹介の締めくくりとして書かれている。


追記:そうそう、『昭和史の謎を追う』の方で「後味が悪い」とされている理由の一部は、「もっとも苦しんだのは、最初のうち日記提供者と誤認された河野未亡人で、村人から白眼視され肩身の狭い思いで暮らしているという」といった事情や、「せいぜい百万円+実費が相場なのに、老人から法外の金額をしぼりとる弁護士のいたこと」などのようです。

*1:コメントしたところ先方が逃げ出しちゃったので、ブログ名は明かしません。

*2:写真の方は売られていた“残虐写真”だったようである。元兵士が本当に「南京虐殺の際の写真」と語っていたのかどうか、については秦郁彦は言及していない。