「疑似科学と平和運動」について再び

前回書いたエントリはこちら。その後、以下のようなエントリを拝見して。
Demilog 「昨日のエントリについての補足」
モジモジ君の日記。みたいな。 「似非科学を似非科学的に批判すること」


まずは demian さんのエントリから。というより、そこで引用され検討の対象とされている、すでに書き換えられてしまったブクマコメントについて。「他人のライフスタイルや価値観にまで踏み込んで発言する時は慎重になるもの」なのに「ニセ科学」「トンデモ」といった旗印があれば、「そこに踏み込んだり侮辱したりする行為も許されてしまう」のか、という疑似科学批判への批判的なコメントである。しかしですね、demian さんが指摘されている疑似科学の「実害」の問題をとりあえず脇においたとしても、疑似科学と極めて親和的なニューエイジ的思考はそれ自身が「他人のライフスタイルや価値観」への批判であるわけです。で、ニューエイジに肩入れしている人々はみんなそろってお上品なんでしょうか? 「侮蔑」はともかくとしてライフスタイルや価値観について論じる時に「踏み込んだり」しない、なんてことは可能なんでしょうか? 「他人のライフスタイルや価値観」を批判する際に、その根拠が「水で走る自動車」だったりしたらそれはちっとも「慎重」ではない、というのがニューエイジ疑似科学批判のポイントの一つだと思うのですが。
なんというか、過去の戦争犯罪について「なかった」とする主張が(1)被害者を重ねて葬り去ろうとする行為であり、(2)生存者や目撃者の証言、研究者やジャーナリストの調査を「嘘」呼ばわりする行為であるという二重の意味で侵害的なのに、その点がしばしば看過されてしまうのは解せない…というのと同じような事態ですね。


次に mojimoji さんへ。「似非科学的な人が市民運動やってると、市民運動全体の信用を下げるから問題だ」という発想が「似非科学的な人が護憲を主張してるから、護憲の主張自体もうさんくさい」という発想を「採用」したことになるのか。ここには確かに考えるべきところはあって、あくまで「それはそれ、これはこれで評価すべき」と原理原則にのっとった反論をすべき、という考え方はあるでしょう。ただし私自身は、上で言及したエントリでも書いたように、陰謀論とか疑似科学的発想は「個別の」誤りではなく「体系的」に誤りを生みだす思考様式だからこそ問題にすべきだと考えているので、例えば「護憲」といったごく荒っぽいくくりにおいては結論が一致したとしてもその内実を検討していけば同意できないことが多々でてくるだろう、と予測する。だから結局は陰謀論的発想や疑似科学的発想を問題にせざるを得なくなると思いますが。さらに、「もちろん、「お告げ」の話をする人は、周囲から生暖かく聞き流されるわけ」ならまあいいとして、本当にそうなのか危惧を持っているからこそ市民運動陰謀論とか疑似科学が結びつくことを批判してるわけでしょう(いやもちろん、表立って「お告げ」だと言えばたいがい聞き流されるでしょうが…)。


それから次のようなご指摘について。

 アメリカがアフガニスタンイラクを攻撃したときの理由づけは、実にトンデモであった。「大量破壊兵器を持っているに違いない」、あれこそまさに陰謀論であって、その陰謀論にしたがって実際に戦争までやった。さらには、それが見つからないとなっても、ともかく攻撃そのものが間違いだったことは絶対に認めない。これこそまさに似非科学である。

私はむしろ「陰謀論」や「疑似科学」ですらないからこそ(なおさら)問題だと思うけどなぁ。アメリカ、イギリス、日本などの政策決定に関わっていた人間たちが主観的には本気でイラクに「大量破壊兵器はあるはず」と思っていたかどうか。これまでに明らかになっている事情に照らして考えれば(好意的に言っても)「ある、と判断する根拠が薄弱である」ことは承知していたわけでしょう。だけどそんなことは気にしなかったわけです。日本においてイラクへの自衛隊派遣を支持した人々の多くが、いまになって「どうしよう、大量破壊兵器はなかったよ。でっちあげによる戦争に加担してしまった。これは大変だ」と慌てているというはなしは聞いたことがない。ということは、「大量破壊兵器はあるはず」という根拠がうさんくさいことを承知しつつそんなことは気にしなかった(気にしていない)人々がたくさんいた(いる)、と推定できるわけです。もちろんそこに、「都合の悪い証拠は過小評価する」といった、陰謀論疑似科学に共通する認知の歪みが関与していたであろうとは言えますが。これを陰謀論疑似科学と呼んでしまうのは、むしろ好意的にすぎるんじゃないでしょうか。