『ホロコースト』

ホロコーストについて基本的なことを知ることができるだけの文献はすでに日本語で刊行されているけれども、新書や選書といった版型の場合古くなると書店で見つけにくくなってしまうという事情もあるから、最新の研究成果を反映した入門書が新たに刊行されることには意義がある。本書では過去の通説、通念が現在ではどのように見直されているかについて明示的に言及があるので、ホロコーストについての通史的な紹介はかなり前に読んだきり…という方にも一読の価値はあるだろう。とりあえずこれ一冊読めば、ホロコースト否定論の「一点突破全面展開作戦」のからくりは直ちに見抜けるようになるだろう。「アウシュヴィッツ」が一種のシンボルとなったことはホロコーストが広く知られることに貢献した反面、どうしても絶滅収容所でのガス殺という限定されたイメージを形成してしまったきらいがあるが、例えばゲットー化政策によっても大きな犠牲が出ていることがよくわかるように書かれている。
なおシンティ=ロマや障害者、共産主義者ソ連軍捕虜などの大量殺害についても言及されてはいるが、副題が示すように「ユダヤ人大量殺戮」に焦点をあてた記述となっている。


殺害方法の中心が銃殺からガス殺へと移行していった大きな理由が、「直接の執行者たち」の「心理的抵抗」にあったという事実は、大量虐殺の心理学を考えるうえで非常に示唆的だ。それ以前にも、武装親衛隊員の「トラウマ」を懸念してユダヤ人女性は射殺ではなく「沼へ駆り立てよ」と命令した事例(旧ソ連プリピチャプリピャチ湿原*1)、射殺担当の兵員を選ぶ際に「殺害に耐えられない者は遠慮なく申し出るようにという指示」があった事例(ウクライナ)ことが紹介されている。


「まえがき」では、1978年にアメリカのNBCが放送した『ホロコースト−−戦争と家族』がきっかけでホロコーストが「世界的に広く」知られるようになったと指摘されている。これ以降、ホロコーストが「有名」になって以降に物心ついた世代にはなかなか想像し難いことだが、ホロコーストの場合でさえその意味が認識されるまでにこれだけの時間がかかったわけだ。だからこそ「○○年前のことをいつまでも…」という論法を安易に認めるわけにはいかないのである。


追記:「あとがき」より。著者の目論み。

 (…)本書を通して、ホロコーストというユダヤ人大量殺戮について、狂気に満ちた独裁者ヒトラーアウシュヴィッツで行うよう命令し、実行されたといった直線的なものでは決してないことを理解してほしい。

*1:はてブでタイポのご指摘をいただきました