『アウシュヴィッツの<回教徒>』

本館の方で扱っていた話題ですが、こちらにトラックバックもらったので。なぜホロコーストのはなしになるのかさっぱり分からないとのことですから、柿木昭人さんの『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(春秋社)から引用しておきます。

 誰かを「生きるに値しない命」であると断定し、その「算術」を練り上げることに腐心してきた近代の歴史。そして、その恐るべき指標として現代社会において密かに学習すらされ、反復されるナチズムという出来事。ナチズムは暴力によって打倒されただけであり、決して「論証=説得」によって打ち倒されたのではない。(29頁)

こういうことを書くと「トリアージをする人間をナチ呼ばわりするのか?」という反応がありそうですが(実際、福耳先生はそう反応しちゃったわけですが)、二重の意味でそうじゃありません。第一に、柿本氏が析出しようとする「思考としてのナチズム」は別にトリアージのような場面でだけ現われるわけではない。むしろ、トリアージ以外のところでこそよりグロテスクに現われると言ってもよい。第二に、hokusyuさんがホロコーストをひきあいに出したのは(そしてその周辺で私がコメントしているのも)「トリアージをするな」と主張するためではなく(それは「啓蒙」の単なる否定でしかない)、福耳先生がトリアージに語る際に自覚していなかったことを自覚することは重要だ、と主張するためです。


参考:
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1437265980/E1102146261/index.html
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1437265980/E896203990/index.html
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C673208941/E20060103143737/index.html


追記:あちらの追記について。

う〜ん・・・困った。また「接点が見つからない」話が別方向から始まった感じ。

なんで「別方向」ですか? 別にホロコーストについての認識とか、ホロコースト研究の今日的意義といった点について hokusyuさんと私とが完全に一致しているはずも無いでしょうが(そもそも私には hokusyuさんほどの知識が無いので)、しかし基本的には近い「方向」からのはなしですよ(と、判断します。本館で書いたエントリに現時点で hokusyuさんが異を唱えておられないので)。

率直に言って、「なんで、たかがトリアージからここまで大袈裟な話にならなくちゃいかんの?」というのがわかんない。

別に「四川の震災現場でトリアージが行なわれている」という報道に対して hokusyuさんその他が噴きあがったわけじゃないのは記憶してます? こういう書き方すると「ああ、結局分かろうとする気がないんだな」と思わざるを得ないですよ。
「比喩」じゃないと指摘されたら今度は「晦渋」とか「衒学的」とか言い出しましたね。「逃げた」と言われるのがいやとか言いながらすでにして「逃げ」てますよ。とりあえずホロコーストというのは単に「優生学はなぜ否定されねばならないのか?」という問題じゃない、というのはわかりました? お返事ください。