あいかわらずだねぇ・・・(追記あり)

on rehabilitability
ドンキホーテの幸福

結局以前と同じパターンですな。要するに出発点にあるのは「VAWW-NETウゼエ」「教科書検定にケチつけるやつウゼエ」*1であって沖縄戦とか映画『靖国』に関心があるわけではなく、ようは自分のリングに近いところで VAWW-NET みたいな団体を disるチャンスに飛びついただけだから、どうしてもツッコミどころをつくってしまう。で、そこを指摘されるとずるずると自コーナーへと後退してクリンチに持ち込もう、というわけである。
で、とりあえず「法律的見解の主張可能性」がどうたらとかいう弁解が bullshit だという点について、実質的に反論することは断念したと考えてよろしいか? 『靖国』の李監督にクレームを付けていた面々のなかには「もっと〔期待権の〕保護範囲を左側に広げろ」と主張していた者はいないのであって、とすれば最高裁判決をうけて「刀鍛冶の人の期待権を根拠に映画『靖国』を批判している人は別の論拠を考えるように」と書いたことについて、「もっと保護範囲を左側に広げろ」という「法律的見解」は最高裁判決前には「主張可能」だったのだからオレは間違ってなかった・・・などと言い張っても虚しいだけである。現実には存在しない者に向けて「〜するように」と提言することに意味があるとお考えなら、あるいは「読ませたいのは自分自身」であるってことならはなしは別だが。

  • Apeman氏にはメタレベルの言説とベタのものの違いが理解できない。
  • Apeman氏には自己と他者の違いを認識する能力がない。

これが最後の砦ですか? もはや悲鳴ですな。「後生ですからメタって逃げ道を許してください」、と。「メタとベタ」なんて使い古された手で逃げようたってそれすべってますから、ってことは前回のエントリで指摘しておいたはずなのだが? 最高裁判決が下ったあとでなされる「刀鍛冶の人の期待権を根拠に映画『靖国』を批判している人は別の論拠を考えるように」という発言は、当然ながら最高裁判決以前には「刀鍛冶の人の期待権を根拠に映画『靖国』を批判している人」の「論拠」が有効である(裁判所が損害賠償を認めるかどうかはともかく、少なくとも四つに組んだ勝負になる程度には)という主張を含意する。現実の日本に存在した「刀鍛冶の人の期待権を根拠に映画『靖国』を批判している人」のなかには「もっと〔期待権の〕保護範囲を左側に広げろ」と主張することによって「刀鍛冶の人の期待権」を保護しようとした論者はいないのであるから、これは「映画『靖国』の取材対象者側の主張によれば、高裁判決に言う「特段の事情」に近い事情が存在している」という認識を含意することになる(「A1

しかしApeman氏が右翼のレベルが低いことの例として挙げた一つ目は確かに誤字という形式面の問題だが(後略)

以前にもこの人物は自分の読者の知的水準をずいぶんと見くびっているのではないか? という疑問を呈したことがあったが、なんでこういうつまらないインチキをするのだろうか? 第一に、私は「他人を「反日」呼ばわりしながらプラカードに誤字満載」と書いたのであって、誤字それ自体を問題にしたのではない。彼らの主張とパフォーマンスとの齟齬をこそ問題にしているのである。第二に、「〜とか、・・・とか」という表現は言うまでもなく例示を導くフレーズなのであって、それに対して具体的な事例の一つについて(しかも大いに矮小化したうえで)反論すればすむと思うのはあまりに幼稚である。

第一。Apeman氏としては私が稲田朋美氏や『靖国』を問題にしたがっている人々に同情的な歴史修正主義者だとどうしても主張したいようなのだが

わざわざ「間接キス」という表現を用いた理由がお分かりでないようで。文学方面をあまり研究していないので、よく分かりません、ということか?

その根拠というのはつまり私が彼らに対する明示的な批判をしていない・そのことが彼らに有利に機能しているということに尽きるようである。

と〜んでもない! ご自身の実績を過小評価しておられる!

第二。なんかジェンダーフリー反対派の稲田先生が「BL系コミック誌編集スタッフ募集」の告知を見たらどうなることかとか書いていていや私はその方のことを存じ上げないので

沖縄戦をめぐる歴史教科書検定だとか映画『靖国』をめぐる騒動について(誰に頼まれたわけでもないのに)言及しておきながら、稲田朋美を知らない、なんてカマトトもいいところ。ほんとに知らないなら世間知らずもいいところで、まるっきりダメな意味での「心の狭い学究」。自身の発言の政治的含意に責任をもつつもりがないのならブログなんてやめろ。つーか、映画『靖国』への助成金がどうたらといったはなしにも言及してたよね? それに関する報道では必ずと言っていいくらい稲田朋美の名前は出てたんだが。平気で嘘をつく人?

あくまで一般論として言うが政治・思想運動としてのジェンダーフリーと創作・嗜好としてのボーイズラブを直線的につなげるようなモノイイは死ぬほど恥ずかしいのでやめた方がいいと思う。

この一節で、「自己と他者の違いを認識する能力がない」のはむしろこの「心の狭い学究」の方であることが明らかになる。私は前回のエントリで「ジェンダーフリー」についても「ボーイズラブ」についても私自身の見解はまったく述べていない。稲田朋美が「ボーイズラブ」についてみせるであろう反応を予測したうえで、南京事件否定派の節操のなさを嗤ってみせただけのことである。表象の入れ子構造を理解できないというのはすなわち「自己と他者の違いを認識する能力がない」ということ。

第三。ご紹介いただいたリンク先でなんか毎日新聞報道を批判するプラカードの誤字をみんなして嗤っておられて、まあ誤字は恥ずかしいと私も思うので批判すればよろしかろうと思うが誰一人誤りの内容を正確に指摘できていないというのはどういう二段オチですか。orz

自分に都合の悪い情報でももうちょっとまじめに探索してみれば答えは得られるんじゃないかな。


なお、私にも“このフレーズが出てきたら「静かに本を閉じて書棚に放り込」みたくなる”というやつがあります。例えば「言語ゲーム」とか、ね。


追記:「法律的見解」の「主張可能性」だとか「ドンキホーテの幸福」なんてはなしをするなら、この本は必読じゃないですか!


再追記(7月12日):Prodigal_Son さんのコメントへの返答を書いていて思いだしたのだが、このエントリでの次の発言は一体なにを意味しているのか?

第三にトリヘドランさんのコメントをめぐって「被害者側の生存者の証言であり、他方は加害者(と目される)側の証言である」とされている点については、もちろん一般論として加害者側は被害を過小に・被害者側は過大に証言するバイアスが働きます、それが加害者・被害者のreversibilityですてえ話でしょうな。それを無視して被害者の証言の特権的な地位を認める歴史理論がどうダメか、という話は(高橋哲哉先生の主張などをめぐって)すでに「規則とその意味」補論で書いたので繰り返さない

当時気づかなかったはうかつもいいところだが、まああちらも一生懸命後出しで弁解しているわけだから気にせずにおこう。沖縄戦についての検定意見撤回を要求する時、すなわち「集団自決」に軍の強制がはたらいていたと主張する際に、高橋哲哉氏の議論のみを論拠にする人間がいるだろうか? 哲学者(など異分野の研究者)の歴史理論と歴史学者の実践とによかれあしかれ隔たりがあることは、吉見義明氏に対する上野千鶴子氏の批判(それを有意義な批判とみるかどうかについてはここでは問わない)をみれば明らかである。検定前の歴史教科書の記述ももちろん「被害者の証言」のみならず多角的な考察に基づいていた(むしろ検定意見の方が、一方の当事者の「証言」に依存していたといってよい)。これもまた「だからどーした?」というはなしでしかなかったわけだ。

*1:しかし歴史教科書における沖縄戦の記述に関して言えば、検定を通った記述に最初にケチをつけたのは右派の方なのであるが、「心の狭い学究」はもちろんそんなことは気にしない。