今日買った本

「読んだ本」でないのが情けないところですが・・・。

  • デーヴ・グロスマン&ローレン・W・クリステンセン、『「戦争」の心理学』、二見書房
  • スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、『戦争は女の顔をしていない』、群像社


前者は、当ブログでも何度か取り上げた『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)の著者(自身レインジャーとしての経験もある、米陸軍士官学校の教官)が法執行の分野での暴力について研究してきた*1共著者とともに書いた、『戦争における・・・』の続編的著作の邦訳(原著は2004年)。
戦時暴力を被害者の視点から考えよ、という問題提起はいうまでもなく重要なものなのだが、それと同時に「殺すことを強いられる者」の視点も重要であり、かつ後者を重視することは決して前者の軽視にはつながらないのではないか・・・というのが、このブログを運営するようになって学んだことの一つなのだが、グロスマンの『戦争における・・・』は清水寛さんたちの研究や一部の旧日本軍将兵(および旧連合国軍将兵)の証言と並んで、そうした認識を導いてくれたものの一つである。とりあえず「謝辞」から、あるヴェトナム帰還兵がヴェトナム戦没者記念碑に供えた一枚の写真に添えたメモを引用しておき(12−13ページ)、読了したら改めてエントリを立てることにしたい。その帰還兵は、「若い北ベトナム軍兵士を殺したとき、その財布から一枚の写真を抜き取ってきた。それには、その兵士自身といっしょにかわいい少女が写っていた」。写真が供えられたのはそれから20年以上たってからのことであるという。

 二二年間、私はこの写真を財布に入れて持ち歩いてきた。ベトナムのチュライのあの道であなたに出会ったとき、私はまだ一八歳だった。なぜあなたが私の命を奪わなかったのか、それがわかる日は来ないだろう。あなたは長いこと私をじっと見つめていた。AK47でこちらに狙いをつけていながら、ついに発砲しなかった。そんなあなたの命を奪った私を赦してほしい。ベトコンを殺せと訓練されてきて、その訓練のとおりに身体が動いてしまったのだ・・・・・・この年月、私は何度この写真を取り出したか知れない。あなたとあなたのお嬢さんの顔を見るたびに、苦しみと罪悪感で胸もはらわたも焼かれるようだった。いまは私にも娘がふたりいる・・・・・・あなたは祖国を守ろうと戦う勇敢な戦士だったのだと、いまなら私にもわかる。だがなによりも、あなたが奪うことをためらった生命の尊さを、いまの私は尊重できるようになった。たぶんだからこそ、今日ここに来ることができたのだろう・・・・・・目を前に向け、苦しみと罪悪感を解き放つべき時が来たのだ。どうか私を赦してください。

このメモが伝えるメッセージが貴重なのは、かつての「敵」を「祖国を守ろうと戦う勇敢な戦士」だと認知すること−−それだけでも、相手を人間として再認識することではあるのだが−−にとどまらず、死んだヴェトナム軍兵士のためらいへの−−つまりは「敵」をためらわずに殺せという戦場の論理への懐疑に対する−−共感が示されているからだ。
あわせて、以前にこのエントリで紹介した短編集『ヴェトナム戦場の殺人』に収録されている、「ホーチミン・ルートの死」の一節を引用しておきましょう。ヴェトコンとアメリカ軍の板挟みになった庶民のひとりである老婆が、一文の得にもならないのに殺人事件の目撃証言をおこなった理由を述べているところです。

「わたしが今日あなたのところに来て、小屋で見たこと、思っていることを全部話したのは、あのGIの母親に、彼女の息子はひとりで死んだのではないと伝えてもらいたかったからだ。彼女はそのことを知りたいと思うだろう。こう言ってあげてほしい。彼女がそばにいてやれないそのとき、わたしが、ひとりの母親が、彼女の息子の手を握っていたと。彼女のためにそうしてやれてうれしかったと。彼はひとりで死んだのではないと」
(153ページ)


『戦争は女の顔をしていない』は、『「戦争」の心理学』を買いに行ったついでに書店をうろうろしていてたまたま見つけた本。旧ソ連出身(ウクライナ生まれ、ベラルーシ育ち)の女性ジャーナリストが、70年代後半から80年代半ばにかけて、独ソ戦に従軍した女性たち(看護婦や事務要員としてではなく、戦闘員やパルチザンとして)に対しておこなったインタビューに基づいて書いた著作の、増補版の邦訳(のようである)。ペレストロイカまでは旧ソ連の男性中心主義と「祖国防衛戦争」の汚点を隠蔽しようという意志によって出版もままならなかった、とのことである。こちらもとりあえず、旧版では検閲のため、ないし自己検閲故に削除されていた箇所を紹介している部分(28−41ページ)から、いくつかのエピソードを引用しておこう。

 「パルチザン部隊は昼間、馬で村にやってきた。村長とその息子〔ドイツ軍に協力したとされたのであろう。引用者〕を家の中から引き出すと、鉄のバールでアタマを殴りつけ倒れるまで打ち続けた。倒れてからもとどめを刺そうとする。わたしはそれを窓からすっかり見てしまいました。パルチザンの中にわたしの兄がいました。彼はうちに入ってきてわたしを抱きしめようとした。『俺だよ』私は悲鳴をあげた。『近づかないで! 近づかないで! 人殺し!』それから口をきけなくなった。一ヶ月というもの口をきけなくなっていた。
 兄は戦死しました。もし生き残っていたらどうなったことか? もし家に帰ってきていたら?」

「わたしたちは包囲されてしまいました。わたしたちの政治指導員はルーニンでした。彼が『ソ連の兵士は決して虜囚とならない。スターリン同士〔ママ〕がおっしゃるように、わが国の捕虜はいない、いるとすればそれは裏切りものだ』という命令を読み上げた。男たちはみなピストルを取り出した。そのときルーニンは言ったんです。『やめておけ。生き延びるんだ。まだ君たちは若い』そして、自分は自害したんです。(・・・)」

捕虜になることを禁じたのはなにも旧日本軍の専売特許ではなく、旧ソ連軍や日中戦争における中国軍も同様であったことは、例えば秦郁彦が『日本人捕虜』(原書房)などで指摘している。先日紹介したレスター・テニー氏の回想記には、アメリカにおいても捕虜は「英雄」とは異なる扱いをされたことが記されている。その限りで、捕虜になることを恥じる心理はそれなりの普遍性をもつということはできるだろう。しかしながら、全体として自軍が優勢であった(しかも自国の存亡が危うくなるような局面では全くなかった)戦闘で捕虜になった将兵にも自決を強いたという点で、旧日本軍が近現代の戦史において特筆すべき存在であったことはやはり否定できまい。そのうえで、現場の指揮官の判断いかんで生死が分かれた、といったケースは独ソ戦にも沖縄戦にもあった・・・という意味での普遍性も、このエピソードは語っている。

*1:邦訳の著者紹介だと経歴における正式な肩書きがよくわからないのだが、そういうことらしい。