『南京の真実』第二部そのほか

南京の真実』第二部について Prodigal_Sonさんがエントリを書いておられ、本館の掲示板でグリフィンさんからソースが『正論』における水島監督の連載、「映画「南京の真実」製作日誌」の9月号分だということを知り、書店によってきました。2ちゃんねるに流れている情報は不正確で(例えばここの958)注意が必要ですが、要するに沖縄の第三十二軍司令官牛島中将と参謀長長中将の「最期」が立派であったと称え、「だから虐殺なんて命じたはずがない」と印象づける狙いのようです(ついでに、軍が非戦闘員に自決を命じたはずがないとも印象づける、一挙両得を狙っている模様)。まあプロパガンダとしては一定の効果を発揮する手法ですが、歴史的事実について議論する場合にはおはなしにならない、稚拙な論法ですね。


一足先に似た手法を活用しているのがMSN産経ニュース、8月12日づけの「【正論】「8月15日」 文芸批評家・都留文科大学教授 新保祐司」です。『戦艦大和ノ最期』をめぐる議論についてもいうべきことはあるのですが、ここでは次の一点に絞りましょう。

 戦後63回目の敗戦の日を迎えるにあたって、日本人は「天下ニ恥ヂザル」敗北をしたのだという気高い精神をまず回復すべきである。小林は跋文の中で「反省とか清算とかいう名の下に、自分の過去を他人事の様に語る風潮はいよいよ盛んだからである。そんなおしゃべりは、本当の反省とは関係がない。過去の玩弄である。これは敗戦そのものより悪い」とも書いている。「恥ヅベキ」敗北をしたのだという歪められた意識は、「敗戦そのものより悪い」のである。
 「天下ニ恥ヂザル」敗戦ということでは、今村均大将が真っ先に頭に浮かぶ。今村大将については、角田房子『責任 ラバウルの将軍今村均』などがあって、この「聖将、仁将」と呼ばれた軍人の生涯と人柄は、戦前の歴史の記憶が日本人の間で薄れつつある中でも、よく知られている方であろう。
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 野村胡堂は「内村鑑三全集と今村均」というエッセーを「ラバウル十万の将兵を無謀な玉砕に追いやることなく、地下に潜って百年持久の計を樹(た)て、貴重な生命を救い得たのは、戦陣の中に、内村鑑三全集を読みたいと考えたその魂であったと思う」と結んだ。こういう「魂」が戦ったのである。「天下ニ恥ヂザル」敗戦でなくて何であろうか。

人柄について悪い評価を聞くことがほとんどない今村大将ですが、責任ある地位を占めた人間である以上、第8方面軍司令官時代の行動だけで歴史的評価を定めるわけにはいきませんし(例えば満州事変当時は参謀本部作戦課長)、ジャワでの今村軍政を称えるのは杉原千畝を称えるのと似て、いずれも軍中央や外務省の覚えが目出たかったわけではないことをふまえておく必要もあります。しかしそれ以上に、数多くの軍人の中から今村均ひとりにスポットライトをあてて「こういう「魂」が戦ったのである。「天下ニ恥ヂザル」敗戦でなくて何であろうか」と結ぶのは、強弁にもほどがあるというものです。