無知を武器にする人々、などについて

さて、先日“国家社会主義ファシズムと呼ぶようになったのは、1943年のスターリンの命令による”というオリジナリティあふれる、いやあふれ過ぎな新説を開陳した id:munyuu は、ポル・ポト派特別法廷についても斬新な主張をしている。

[これはひどい][社会][国際]つうか、カンボジア政府は国民同士が憎しみ合うのを避けるために、ポルポトに対しての罪状追求は止めていたはず。 カンボジア国内に混乱を引き起そうとする工作か?人権ネタの強請かも。告発者の裏を取らないとね。
(http://b.hatena.ne.jp/munyuu/20080909#bookmark-9944414)

カンボジア クメール・ルージュ」あたりでググればクメール・ルージュ特別法廷(カンボジア特別法廷:ECCC)についての情報は簡単に見つかるんだけど。

ポル・ポト派特別法廷
朝日新聞キーワードの解説


  75〜79年にカンボジアを支配したポト派は極端な共産主義政策を進め、病気や処刑で国民約170万人を死亡させたとされる。昨年7月に設置された同法廷は元幹部らを集団殺害、人道に対する罪などで裁く。「国際水準を持つ国内法廷」とされ、起訴、審理ともカンボジア人と外国人の司法官が共同で行う。二審制で、最高刑は終身刑。運営予算5600万ドル(約65億円)のうち日本が2160万ドルを拠出。元東京地検検事の野口元郎氏が二審判事を務める。
http://chiezou.jp/word/ポル・ポト派特別法廷)

毎日.jp ニュースな言葉
 ◇旧ポル・ポト派特別法廷


 知識人の殺害や強制労働で約170万人を死亡させたとされるポル・ポト政権の元幹部を裁くため、カンボジア政府と国連が03年に設置に合意した。06年に捜査を開始し、集団虐殺や人道に対する罪などで昨年末までにヌオン・チア元人民代表議会議長やイエン・サリ元副首相ら5人を拘束した。2審制で最高刑は終身刑。運営予算5600万ドルのうち4割近くを日本が拠出している。
http://mainichi.jp/word/archive/news/2008/08/20080805ddm007030011000c.html

裏を取るならまずは自分が頭に詰め込んだ与太の裏を取れよ。約170万人を殺害したことは信じても性犯罪を行なったことは疑うのかよ。
ちなみに上述のスターリン云々だけど、これはもう43年以前に、イタリア以外の政体について「ファシズム」という語を用いている事例があることだけをとっても与太だということがわかる。ネットにつながってる人間なら誰でも確認できる事例をいくつか。強調は引用者。

例言
一、本書は曩に外事警察報第百二十四号(昭和七年十一月)乃至第百四十三号(昭和九年六月)に亘り随時掲載せるものを輯録したるものなり。
一、本書に於ては大體に於て一九三三年(昭和八年)末に至るまでの事実に就き記述したり。従つて其の後ソヴィエート聯邦に於ける第二次五年計画の進捗並に諸国に於けるファシズム的勢力の伸張に伴ふソヴィエート聯邦内外の情勢の変化、殊にコミンテルンの戦術の変化に就ては説き及ばず。
一、本書は当時の内務事務官田中重之氏の執筆に拠る。
昭和十二年八月 内務省警保局
(『共産主義の理論と実践 (ロシヤ共産党並に共産インターナショナル発展の歴史的観察)』、アジア歴史史料センター:リファレンスコード=A04010493800)

他にも外務省の資料、「共産党宣伝関係雑件/対日宣伝関係 第十巻/労働新聞及雑誌太平洋労働者関係 第二巻 9 昭和10年9月10日から昭和10年9月18日」(リファレンスコード=B02030954100)は、ニューヨーク総領事が入手した『労働新聞』を廣田外相宛に送付したというものだが、その第153号第2面(資料4ページ)には「ドイツ、ポーランドオーストリーその他におけるファシズムの勝利」という文言が見える(関係ないが、同号の1面では相沢中佐による永田軍務局長斬殺事件が報じられている)。社会科学などの領域におけるマルクス主義の影響力が日本よりも弱かった国、例えばアメリカでもナチス・ドイツについて「ファシスト」という形容詞は使われるんであって、気に入らないものはスターリンのせいにしてしまう発想こそ、「脳だけ冷戦時代にコールド・スリープ処置をしてそれっきりなのか?」と評されるべきであろう。


さて先に引用した「告発者の裏を取らないとね」という一文に露呈しているシニシズム(お前が心配しなくたって、告発が正式に受理されれば裁判所が裏を取るし、受理されなければこの告発をもって直ちに誰かが処罰されたりしないんだよ!)とは一見したところ逆方向を向いた、しかし根底においては同様なシニシズムを露呈しているのが引用したブクマの元エントリである macska さんのエントリ「クメール・ルージュ裁判におけるトランスセクシュアル被害者の告発」で言及されている、山形浩生「Irresponsible Rumors 2008」中の一節。まず告発した被害者の弁護士の発言は、報じられているところでは次のようになっている。

Silke Studzinsky, Sou Sotheavy’s lawyer, was pleased about this first civil action suit concerning sexual crimes: “The investigations held by the KRT hadn’t yet focused on cases of rape and sexual abuse, due to a lack of proofs. The acts of violence against sexual minorities will finally enter into consideration.”
(http://www.cambodgesoir.info/content_en.php?itemid=34619&p=)

クメール・ルージュ特別法廷がこれまで性犯罪に注目していなかったこと、それをふまえてさらに性的マイノリティへの性暴力がとりあげられることの意義を指摘しているわけである。

Sou Sotheavy's action is the first complaint before the ECCC concerning sexual violence under the Khmer Rouge regime.

In her complaint, she said she is not seeking compensation but to tell her story to the world on how sexual violence was committed during the Khmer Rouge era.

"I am representing many transgenders who suffered like me during the period, but most of them were already killed or died," she said.

The ECCC said that, to date, investigations into sexual violence have not been included for the reason that there is a lack of sufficient evidence.

But Sotheavy's complaint will be a step that would encourage other victims of such crimes to come forward and demand acknowledgment and justice for their suffering, which has largely been ignored until now.
(http://www.breitbart.com/article.php?id=D92V9B280&show_article=1)

Studzinsky弁護士の声明はこちら(PDF)。少なくともここでは "there's a myth that KR didn't sexually assault the prisoners, so this case will put an end to that myth" などということは主張されていない。主張されているのは次のようなことである。

"To date, a widespread silence and/or confusion has covered up crimes of sexual violence. According to common perception, sexual violence occurred during the regime, but has not been as formally documented as have other atrocities.

強調部分(引用者による)などは「風の噂」とむしろ逆である。まあ「無責任な噂」と銘打たれているんだから、真に受ける方がアホってことですか? とはいえ、「人権ネタの強請かも。告発者の裏を取らないとね」とか言い出す人間もいるわけだし、またよく知らないけど投稿者の知的水準が高いということで評判らしい某掲示板ではホロコーストについてさえ

俺は単に「ユダヤ人が嫌いだから殺しました、理屈は後付けです」
だと思ってたんだけど。違うの?
(http://www.ichigobbs.net/cgi/15bbs/economy/1324/07)

なんて発言が通用したりするくらいだから、ポル・ポト派による性犯罪が周知の事実である、なんてことはないんじゃないの? ショートのポル・ポト伝の邦訳者が "in a court that is supposedly dealing with mass murders, tortures, and all sorts of totally unimaginable atrocities, this "gender crime" seems remarkably petty and out of place" などと言うくらいだから、性犯罪に対してはほとんど関心が払われてこなかった、というのが実態じゃないの? そりゃ「ポル・ポト派は性犯罪を犯さなかったと思いますか?」と聞かれて「犯さなかったと思います」と答える人間は少ないだろうけど。渡部昇一センセイや福耳先生に「あなたがポル・ポトを引き合いに出したとき、性犯罪のことは念頭にありましたか?」と尋ねてみるといいと思う。


さてはなしを元に戻すと、「告発は信用できない」も「告発は当たり前すぎで意味がない」も、国家犯罪の一部を構成する性犯罪を告発することへのシニシズムという点では実は同根である。"a widespread silence and/or confusion has covered up crimes of sexual violence" という Studzinsky弁護士の指摘は従軍慰安婦問題にもあてはまることである(被害者が所属する社会の問題ももちろん含めて)。性犯罪の存在を否認するわけではないけれどもそれを告発することの意義を過小評価する態度*1が、結局は犯罪そのものの否認に寛容な社会を生み、米下院第121号決議が通ってしまうといった事態を招いたわけだ。「風の噂」はもとより、こういうシニシズムを得意げに披露する人間を「ぼくはいっさい信用しません」。

*1:ショートによるポル・ポト伝を邦訳した人間なら、特別法廷がこれまで性犯罪を扱ってこなかったことを知らないはずがない。