実は「最後の戦犯」にあらず

12月7日に放映されたNHKのドラマ「最後の戦犯」。録画していたこともあって「ながら見」していたのだが基本的には史実に忠実に、という作りであったと見えた(脚本は主人公のモデルの手記に基づいている)。番組公式サイトには「予習コーナー」があって「軍律会議」を含む32個のキーワードが解説されているので、先に番組をご覧になった方が「復習」のために利用することも出来るだろう。(なお、油山事件の裁判を含む横浜裁判のいくつかのケースについて、横浜弁護士会たいへん有意義な調査結果を刊行している。軍事裁判とはいえ裁判であることに違いはなく、BC級戦犯裁判を批判するにせよ評価するにせよ法律家の観点を参照することは不可欠だろう。未読の方は、これを機会に是非どうぞ。カッコ内追記。)
さて、ドラマのタイトルは「最後の戦犯」だが、実は主人公のモデル左田野修氏は「最後の戦犯」ではない。番組HPではさすがにちゃんと「日本国内での「最後の戦犯裁判」でした」とされている。連合国による戦犯裁判としては、51年4月9日に判決の出たオーストラリア主催のものが、有罪判決がでたものとしてはその20日前のものが「最後の戦犯裁判」である(田中宏巳、『BC級戦犯裁判』、ちくま新書、205ページ)。これに革命中国によるものを加えるなら、56年6月から7月にかけて行なわれた裁判で有罪判決(死刑はなし)を受けた人びとが「最後の戦犯」ということになる。
共産中国での戦犯裁判とくれば中帰連である。先日、野原さんがはてなキーワード中帰連」のひどさを嘆いておられたが、同じく7日日曜にはNHKの「ハイビジョン特集」で「“認罪”〜中国 撫順戦犯管理所の6年〜」が放送された。翌8日にキーワードをのぞいてみるとすでに別の方が応急措置的な手当をされていたので、これもなにかの縁かと思いふだんはやらないキーワード編集をやっておいた。
キーワード作成当時の記者が憎悪をダダ漏れにして書いているように、「中帰連」ないし「認罪教育」といえば「洗脳」という誹謗がつきものである。「思想教育」を行なったことは別に中国側も否定していないし、番組中では学習会への参加を強要されなかったという証言を紹介する一方、ある種の同調圧力が存在したことを示す証言も紹介している。そもそも、閉鎖的な環境での教育が強制性を帯びないはずはないし。もっとも、それを言うなら日本軍の初年兵教育だって「洗脳」である。
ここで重要なのは、「認罪教育」が思想教育の性格を帯びていたことと、その過程で「担白(自白)」された戦争犯罪(起訴・不起訴にかかわらず)の史実性とは別の問題である、ということ。当ブログでも何度か中国の公文書館(檔案館)所蔵の旧軍資料についての報道を紹介してきたが、アメリカ軍が上陸してくるまで2週間あった本土内地とは違って、旧満州などの場合日本軍は慌ただしく敗走しているのでかなりの量の文書が押収されたようである。その結果、前出の『BC級戦犯裁判』は共産党による戦犯裁判を「最も厳格な証拠調べが行われ」た裁判、と評している(159頁)。ちなみに著者は同所執筆当時防衛大学教授だが、BC級戦犯裁判全般についても「裁判の手続きがおかしくても、被告をつくり出した事案つまり戦争犯罪といわれる事件の多くは、現実に起こったことであった」としている(219頁)。


「認罪教育」について私は、実は刑事事件における取調べの問題に対する関心という文脈で興味をもっている。人間は自分に不利なことはなかなか自発的に認めないものである、というのは自明のことである。他方、自発性を欠く自白を証拠としてはならない、というのは近代的な裁判における基本的な原則である。したがって犯罪の取り調べは“自発性を強いる”という逆説をはらむことになる(もちろん罪種によっては捜査側には自白を期待せず、それ以外の証拠を固めることに専念するという選択肢もあるわけだが)。撫順や太原の元抑留者や戦犯管理所の元職員が「認罪」を肯定的に振り返るのを読む(聞く)際に私が連想するのは、日本の検察官が取調べについて語ることばなのである。捜査段階で自白した被告が公判で否認に転じた事件では検事調書の任意性が大きな争点となるが、もちろんのこと証人として「さんざん絞り上げて自白させました」と証言する検事はいない。自分と被疑者の間に“人間的”な関係あるいは“信頼関係”が成立したことを主張するのが定番である(こちらも参照)。また、取調べ過程の全面的な可視化(録画による)に反対する際には、可視化によって信頼関係の構築が困難になるという理由が挙げられる(リンク先はPDF)。根気づよく被疑者が自分の罪を自覚するのを待ち、自発的な自白に至る……というのはたしかに「美しい」場面である。だから撫順・太原の元抑留者や管理所の元職員が「認罪」の体験を人道的な達成として誇りとするのもよく理解できるし、検察官の職業的な矜持がそうした体験によって支えられているとしてもこれまたよく理解できることである。このような取調べが額面通りに機能すれば、必要以上に重い求刑を回避できるという、被疑者・被告人に有利な効果もあるだろう。
しかし粘り強く自白を促すのと、客観的な証拠だけで立件可能なケースでは自白にこだわらずにさっさと立件してしまう(“自分の罪を見つめる”ことは刑務所でやることと割り切る)のとでどちらが「人道的」かはかなり微妙な問題である。どれほど穏当な手法によるとしても、やはり自分に不利なことをある意味で強いることには違いないからである*1。捜査段階、公判段階で罪を認めることを「改悛の情の現れ」として解釈してしまうと徹底的に否認して争う(しかし結果的に有罪になる)被告人に不合理な不利益を与えるのではないか? という危惧もある。したがって、当事者はともかくとして、第三者がこうした“強いられた自発性”になにかしら重苦しいものを感じるのは間違いではないと思う。しかしそこから「だから中帰連は洗脳……」と短絡するのはそれこそネトウヨ的振る舞いというもので、むしろ日常的に行なわれているはずの(そして自分がいつ当事者になるかもしれない)刑事事件の取調べに思いを馳せてみる方がより建設的であろう。

*1:フーコー研究者が共産中国の戦犯政策について研究してみてくれないものだろうか。