ちょっと気になったこと

白燐弾に関して、「骨まで溶ける(焼ける)」、英語だと "burn to the bone" という表現は(化学)火傷が骨まで達しうる(骨が露呈するほどの火傷になりうる)という意味であると私は理解してるわけですが、それでいいんですよね? どうも「白燐弾は超兵器ではない」と言ってる人々の言動をみているとこの表現を「骨も残さず溶ける(焼ける)」と理解している(ないし相手がそう理解していると理解している)ケースがあるように思えてならないので。


もう一つ、「白燐弾がダメというならそこに榴弾撃ち込むことになるけどそれでいいのか?」みたいな混ぜっ返しをする人も見かけましたが、これは白燐弾の使用に対する批判の目的をまったく理解してませんね。榴弾撃ち込めば囂々たる非難を浴びることになる(それゆえ事実上榴弾を撃ち込むという選択肢が封じられている)ケースにおいて「ともあれ言い逃れの余地のある兵器」として白燐弾が使われているのではないのか? というのが批判派の抱いている主たる*1疑惑ですから。なんで白燐弾を批判するかと言えば、アメリカやイスラエルのように軍事的に優位に立っている側にとっての戦争のコストを高くするためです。先日も書いたように、国際法違反との非難を完全に免れようと思えば市街地での戦闘では「歩兵を送り出して“武器を持ち、かつ戦闘の意思を示した人間”だけを、付随的被害の発生する怖れのない武器で攻撃するよう命じるしかない」だろうと思うのですが、もちろんそんなやり方はアメリカやイスラエルのように「人命(ただし自国民および同盟国の国民限定)が高価な」国にとっては事実上できない。そこまでアメリカやイスラエルの手を縛ることはできないだろうけど、それでも少しずつ「安くすむ」オプションを封じることによって軍事的なオプションのコストを引上げさせ、相対的に外交的なオプションのコストを下げること、その結果より外交的なオプションを選ぶようになるだろうことを狙っているわけです。
では「軍事的なオプションのコストを引き上げさせる」という圧力をなぜハマスの側にはかけようとしないのか? と言えば、ハマスにとってはパレスチナの人々が豊かで自由な生活を享受するようになることこそ、軍事的なオプションのコスト上昇につながるからです。つまりイスラエルに攻撃をやめさせ、ガザ地区の封鎖をやめさせ、パレスチナ人の生存権の侵害をやめさせることこそが、パレスチナ側にとっても軍事的オプションの魅力が削がれることにつながるからです。自爆攻撃の要員をリクルートできる(それが実質的には強制を伴ったものであれ)ような社会ではいくら人が殺されようがなかなか軍事的オプションを放棄するという選択につながらないことを、われわれは自国の歴史を通じてよく知っているはずです(ポツダム宣言を受諾しても「国体護持」は可能、という判断が勝たなければもっと多くの人間が死んだでしょう)。

*1:人によっては「同じ殺すにしてもより苦痛の少ない方法で殺すべきではないのか」という問題意識を持っているかもしれませんが。