ところで

昨日のエントリを読んでお気づきになった方もいるかもしれませんが、実はそこでの問題意識は旧本館のこのエントリに連なるものです(ごらんの通り、この段階では「ホロコースト」は登場しません)。枕が長過ぎる上に肝心の部分はかなり端折って書いてしまっているのでいま思えばもうちょっとちゃんと書いておけばよかったな、というところはありますが。
道徳判断についての社会心理学とか進化心理学の知見によれば、われわれは特定の倫理的原則(例えば功利主義)を常に一貫して用いているわけではない可能性があります。ここでの一貫性の欠如は必ずしも「ダブル・スタンダード」を意味しているわけではない。いわば、“一貫して複数の原則を使い分けている”と言ってもよいですし、私たち自身が意識しているのとはまったくちがった一貫性があるのだ、と言ってもよい。そうした現象についての理論的な説明としてどのようなものが妥当であるかは今後も探求が必要だとして、そうした現象があること自体は確かなことではないか、と(コメント欄で田中さんが言及されたギリガンの理論も、こういう枠組みで再解釈可能ではないかと思っています)。その意味で、ある場面では「資源の最適な配分」という発想を受けいれる人が別の場面ではそういう発想に基づく判断*1を倫理的に拒絶したとしても必ずしも「非合理的」だとは言えない。社会科学者ならば「かわいそう」という反応からこそ人間についてのある洞察を導くことができたのではないか? と思ったわけです(実際、ちょっと調べてみると経営倫理の文脈でギリガンが言及されることもあるようですし)。
で、「ナイーブ」と言えば「平和主義者」にしばしば貼られるレッテルでもあります。もちろん、人間が数百、数千、あるいは数万という単位で殺害されているという事態に直面した時に「ナイーブ」に反応してなにが悪いのか? という立場をとることも可能だとは思いますが、やはり基本的に「ナイーブ」であることは美徳ではない。自らの道徳的な判断がどのような基盤を持っているかをよく知っておくことは、「平和主義」を「ナイーブ」と思われないしかたで表現したり「ナイーブ」という評価に反論する際に役に立つのではないか、と思うわけです。

*1:のちに「トリアージは別に医療リソースの“最適”な配分ではない」という指摘が出てきたわけですが、ここでは「資源の最適な配分」という発想の一例として「トリアージ」が持ち出された、という事情を前提とします。