『北海道の捕虜収容所』

  • 白戸仁康、『北海道の捕虜収容所 もう一つの戦争責任』、道新選書

しばらく前に読者の方からメールを頂戴して推薦していただいたのだが、関西在住なもので北海道新聞社の刊行する道新選書はなかなか店頭にみあたらず、通販で取り寄せたものの今度は選書というフォーマットから予期したよりもずっと分厚い(物理的にも、内容的にも)本だったのでなかなかとりくむ時間がとれなかったのだが、ようやく読了。コメント欄ではなくメールでご連絡いただいたことに鑑みてお名前(ハンドル)は申しあげませんが、その節はありがとうございました。


さて本書は函館俘虜収容所をその開設(公式には42年12月26日、それ以前から日本に到着していた捕虜を「仮収容」してはいた)から廃止までの期間にわたって、また捕虜の移送、食事や医療を含めた収容所生活の実態、炭坑等での労働、監視員等による虐待および収容所幹部のそれに対する対応、捕虜の帰国、戦犯裁判等について記述したものである。戦局の展開、軍中央の方針(の変化)はもちろん記述の前提としてふまえられているが基本的には函館俘虜収容所に焦点をあてているので、日本軍の捕虜政策や強制労働問題全体を俯瞰するような調査ではないが(登場するのはほとんどが欧米人捕虜で、同じように炭坑等で働かされていた中国人、朝鮮人については限られた記述しかない)、それはもともと本書の目指すところではないから瑕疵とは言えない。むしろ地方紙と郷土史研究者がとりくむにふさわしい企てだろう。


よく知られているように、いわゆるBC級戦犯裁判の被告のうち捕虜収容所関係者が占める割合は非常に高い。本書では横浜裁判で有罪となった者のうち収容所関係者が64.4%、という数字が挙げられている。函館収容所の関係者で有罪となった者(計27人)が内地の収容所関係者で有罪となった者(計542人)に占める割合は、内地の捕虜収容所に収容された捕虜のうち函館収容所にいた者の比率とほぼ同じである*1。当ブログで度々参照している『法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録』でも第5章で函館収容所関係者の裁判が「本所事件」と「分所事件」の2件扱われている。「分所事件」とは室蘭にあった函館俘虜収容所第一分所(日本製鉄輪西製鉄所)のことで、『法廷の星条旗』では死刑判決(後20年に減刑)となった衛生下士官のケースに着目しているのに対して、本書にはその上司でやはり死刑判決を受けた(死刑が確定、執行)分所長についてかなり詳しい記述があるので、あわせ読むとこの事件についての理解がより深まる。本書によれば分所長は捕虜の待遇改善にかなり気を配ったようで、部下の兵士が「外人の混血児ではないのか」(ママ、104ページ。用語法について章末に注あり)と陰口を叩くほどだったようである。実際に虐待を行なった衛兵や監視員を処罰してもいた。では冤罪だったのかと言えばそうとも言えず、傷痍軍人を中心とした監視員との意識の差は大きく、収容者たちが「加虐的」と感じる虐待が横行していたのも事実で、少なくとも分所長としての形式的な責任はあったと言わざるを得ない。他方、死刑という量刑が妥当であったかと言えばこれは大いに疑問である……という意味で、BC級戦犯裁判のある種の典型――事実認定や量刑に問題はあるが、さりとて告発された虐待が事実無根というわけでもない――のような事件だったようだ。BC級戦犯裁判への批判としては、“復讐心に駆られた元捕虜の宣誓供述書が証拠とされたこと”がしばしば指摘されるが、他方これまた少なからず同様な事例があるように、捕虜を正当に処遇しようと努力した分所長に対しては元捕虜の側からも助命嘆願がなされたという。
この点に関連して本書から分かるのは、軍のような組織においても収容所長や分所長にその意思があればある程度のことはできた、ということである。例えば函館収容所の第二代所長時代(本書の区分では44年4月から45年5月)には捕虜の処遇はかなり改善されたようで、それを裏づけるように函館収容所関係者のうちこの第二代所長時代の事例で有罪となった者はいない、という(306ページ)。この第二代所長は英語教育のエキスパートとして高名*2でリデル=ハートの著作の翻訳もものするなど、当時としては飛び抜けた国際感覚をもった人材だったようなので、そうした人物ならではのことだと思われるかもしれないが、前出の第一分所長は予備士官学校出身で、分所長になって初めてジュネーヴ条約について聞かされたというありさまだったにもかかわらず、捕虜を人道的に処遇するという「意思」は持ちえている。もともと日本の国内法でも捕虜への虐待を認めているわけではないのだから、国内法を遵守すれば相当程度捕虜を正当に処遇できたわけである。問題は、国内法に沿った処遇を心掛けると白眼視される空気にあったと言ってよい*3。この第二代所長についても周囲からは「ヘンなひとだなあ」(130ページ)「彼は駄目だ」(138ページ)といった声があがっていたという*4。敗戦後に Stars And Stripes 紙が大きな写真つきで賞賛の記事を掲載したのと対照的である。
なお、第三代の所長はその短い在任期間、基本的には前任者の方針を踏襲したとされている(162ページ)。一つには敗戦後のことも視野に入ってくる時期になっていたこともあろうが、一度は後備役になって44年に再召集された第三代所長も民間での経歴が長かったことを本書は指摘している。ただし、労役に使用する資材等の不足による事故、食糧事情の逼迫、分所が新設され職員も新たに採用されたこと等もあり、前任者時代より捕虜の処遇は後退した、と著者は評価している(213ページ)。


また本書は「補論」としてアッツ島攻略にともない「捕獲」されたアメリカ人民間人(ほとんどが米国籍のアリュート)についても、ごく簡潔にだが抑留所での生活や帰国までの経緯について記述している。この「補論」で紹介されていることだが、前出の死刑になった第一分所長はあのヴィクトル・スタルヒンと中学時代に投げあったことのある人物だったそうである。

*1:BC級戦犯裁判』(田中宏巳、ちくま新書)176-7ページの表によればそれぞれ32,418人と1,597人。

*2:退役後横浜専門学校英語科主任教授等を務め、41年再召集。

*3:元監視員の一人は、戦後の取材に対し「殴らなければ周りから『敵国の捕虜をのさばらせる気か!』と、白い目で見られる時代」だった、と証言している。105-106ページ。

*4:ただし、本書では簡潔にしか記述されていないものの、当時の北部軍司令官は第二代所長の方針について一定の理解を示していたようにも考えられる。この司令官とは「オトポール事件」の樋口季一郎中将であった。