昭和天皇の政治関与

今日は二・二六事件から3373年目となる日だが、五社英夫監督の『226』がDVD化された(25日発売)のにちなんで『映画秘宝』4月号が二・二六事件をとりあげている。執筆者は「少年犯罪データベースドア』の管賀江留郎氏二・二六事件については通り一遍のことしか知らないので本筋とは外れたポイントへの突っ込みになるが、「政治や軍事に決して口出ししなかった昭和天皇が初めて自ら討伐命令を出し」(55ページ)とされているのにはかなり驚いた。昭和天皇の政治や軍事への関与は「御下問」というかたちで行われることが少なくないからそれを「口出し」と解するかどうかは議論の余地はあろう。「大元帥」としての昭和天皇が積極的に軍の作戦に「口出し」していたとする『昭和天皇の軍事思想と戦略』(山田朗校倉書房)や先日当ブログでも言及した『昭和天皇・マッカーサー会見』豊下楢彦岩波現代文庫)に対しても専門家の間で異論はあるに違いない。しかし実のところ昭和天皇自身が、二・二六とポツダム宣言受諾以外にも政治に「口出し」したことを明言しているのである(『昭和天皇独白録』*1)。最も有名なのは張作霖爆殺事件の処理をめぐって時の首相田中義一に「辞表を出してはどうかと強い語気で云った」という一件であろう(引用にあたって現代仮名遣いに改めた。以下同じ)。これに関連して昭和天皇は「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」と述べている。この独白を額面通りに受けとったとしても、裏を返せばそれ以前はそうではなかった、という含意をもつ発言である(ちなみにこの点についてはこちらでの nagaikazuさんのコメントを是非ご参照いただきたい)。二・二六事件以降にも次のような実例が『昭和天皇独白録』には記されている。

  • (第二次上海事変勃発後のこととして)「私は威嚇すると同時に平和論を出せと云う事を、常に云っていたが」
  • 三国同盟に関して)「又この問題に付ては私は陸軍大臣とも衝突した。私は板垣に、同盟論は撤回せよと云った処、彼はそれでは辞表を出すと云う、彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にその儘となった。」
  • (1939年の阿部内閣組閣について)「私は梅津又は侍従武官長の畑を陸軍に据える事を阿部に命じた。」
  • (1940年の米内内閣について)「米内はむしろ私の方から推薦した。」
  • 三国同盟に関して)「ソ聯の問題に付ては独ソの関係を更に深く確かめる方が良いと近衛に注意を与えた。」
  • 独ソ戦勃発後)「私は近衛に松岡を罷める様に云ったが」
  • (1941年9月6日の御前会議について)「之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが」
  • (東条内閣成立の折)「それで東条に組閣の大命を下すに当り、憲法を遵守すべき事、陸海軍は協力を一層密にする事(・・・)を特に付け加えた。」(東久邇宮首相案を斥けたのも自分だとしている)
  • 「開戦后法皇庁に初めて使節を派遣した、之は私の発意である。」
  • (東条内閣の外交について)「私は独乙がソビエト戦に重点を置くよりも寧ろ「アフリカ」に重点を置く様に勧めたらどうかと、東条に注意を与えた事がある。
  • (小磯内閣について)「私は米内を〔海軍〕大臣にし度いと思う旨を答えた。」「しばしば米内を煩わせて小磯に忠告した。」
  • (戦争末期、近衛の早期講和論について)「私は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当でないと答えた。」
  • (最高幕僚設置問題について)「私は米内ならば良かろうと思って、米内に会った時この事を話した。」
  • ソ連を仲介とする講和を模索していた時期のこと)「鈴木は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云って来たが、前述の理由で、絶対に反対だと云ったら、鈴木は御尤もだと云って帰った。」
  • (近衛をソ連に派遣するという案について)「然し近衛は却々引受けないだろうと云うので、私が直接近衛に話すことにした。」


ちなみに2月15日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で、出演者の一人高嶋伸欣氏が『昭和天皇マッカーサー会見』の概要を紹介していたのだが、これに対する三宅久之氏の反応が爆笑ものだった。「天皇がそんなことできますか? 日本国憲法の下で」という理由で豊下氏の主張を「嘘」と決めつけたのだが、そのちょっと前に(憲法九条があったから平和だった、という主張への反論として)“九条があれば平和になるというなら、憲法に台風は来るなと書いておけばいい”と言ったばかりだったからだ。そう、ただ規範があるだけでは規範通りに事が進むわけではない。

*1:もちろんこの文書は弁明のために作成されたものだから、内容を額面通りに受けとることはできない。しかし“君臨すれども統治せず”を貫いたというロジックで弁明をはかっている文書に記された「口出し」については――他の資料による裏付けがあることを別としても――相当な信憑性があると考えてよいだろう。