「実践的なナラトロジー」について

http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20090603/p1

「実践的なナラトロジー」に対する関心は必要だろう、ということ自体については異議はないんですが。例えば私は捕虜の殺害をめぐる議論の焦点を「違法性/合法性」ではなく、「無抵抗の(しかもしばしば後ろ手に縛った)人間を殺したこと」というところにもっていけないものだろうか、と考えていますが、こういうのは「実践的なナラトロジー」と無関係なはなしじゃないでしょう。しかし・・・


・「○○も必要なんじゃないですかね」みたいなはなしはしょっちゅう聞かされるんだけど、たまには「○○が必要だと思うんでオレやってみました、どうですかこれ?」みたいなはなしも聞きたいな。
・スキルの問題からいえば、むしろ「実践的なナラトロジー」に関心のあるひとに、南京事件という主題に目を向けてもらう方がはなしが早いよね。
・「そもそもの問題」として「学者の言葉の権威失墜」があるとされているわけですが、読書会計画は岡真理〜安丸良夫まで全部「学者」ですよね。「これくらいの知識が共有化できれば」っておっしゃるけど、それができるのってごくごく少数の人間だけですよね? ところで「この言説空間もだいぶ風通しが良くなるのではないかと思います」の「この言説空間」ってどの言説空間のことなんですか? 私が発言しているのは「新書一冊読め」が不当なハードルとして評価されかねない言説空間において、なんですが。
・従軍「慰安婦」問題については「ナラトロジー」への関心は大きな効果を発揮しえたし現実にも一定程度発揮したと思いますが、南京事件についてはどうか。「慰安婦」問題の場合、なんといっても日本の敗戦からおよそ半世紀、それが組織的な国家暴力、組織的性暴力であるという認識が欠除していたわけです。被害者が被害を申し立てることのできない被害を被害として認識するうえで、「ナラトロジー」に対する関心は不可欠だったと言えるかもしれない。他方、南京事件はといえば、犯罪類型としてはもっと古典的なものがほとんどで、だからこそ敗戦後の戦犯裁判で追及されえたわけです。とすると「実践的なナラトロジー」によって事態を変えうる余地はそんなにないんじゃないか、と。
・「ルポタージュや小説の技法だって必要なら取り入れればいい」っておっしゃるけど、「ルポルタージュ」も「小説」もすでに存在してますよね。海外ではドキュメンタリー映画の「技法」も使われたけど日本で公開されるメドは立ってません。