『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』ほか

近年、「8月15日」とは日本がポツダム宣言を受諾したことを帝国臣民に公表した日付に過ぎないとしてこれを相対化する(「終戦=8月15日」という認識を問い直す)議論が見られるが、著者はそうした動向を踏まえたうえであえて「8月15日」にこだわっている。「日本が占領したアジア地域では、八月一五日を境に日本の傀儡政権は次々と消滅していった一方、脱植民地化に向けた胎動がはじまっていた」(iv頁、原文のルビを省略)からであり、「この日に拘らなければ、戦後の日本と東アジアとの関わりは見えてこないのではないか」という認識によるものである。もっともこれは、戦争の記憶の中で12月8日と8月15日を特別視する意識の見直しと両立し得る視点であろう。
ポツダム宣言受諾後の在朝鮮日本人(「内地人」)の動向に関して興味深い記述があった。朝鮮総督府が機能不全に陥ったのをうけて民間日本人(「内地人」)は「京城内地人世話会」を結成する(著者は会の名称を巡り議論があったこと、そして「日本人」ではなく「内地人」が選ばれたことに注意を促している)。

 朝鮮に居住していた日本人のなかには、韓国併合前の一八七六年の日朝修好条規によって居留民として仁川や釜山に住みはじめ、すでに第二・第三世代になっている人びとも多くいた。したがって、在朝日本人のなかでは韓国併合以前の状態、すなわち居留民に戻ればよいとだけ捉え、生活基盤も何もない日本本土へ引揚げるのではなく朝鮮に残留してこの地で骨を埋めたいという意見が根強かった。現に京城の隣に位置し、釜山と並んでもっとも古くから日本人が定住していた仁川では、残留か引揚げかで議論が真っ二つに分かれるほどであった。
(68頁、原文のルビを省略)

結局のところ大部分の日本人は帰国したわけだが、“もし第二・第三世代の少なからぬ日本人が残留を選び、韓国(ないし北朝鮮)社会でエスニック・マイノリティを形成していたら?”という想像をしてみたくなる。彼らがマイノリティとして差別されたとしたら、“日本がいやなら在日は母国に帰れ”と主張する人びとはやっぱり“差別がいやなら日本に帰ってこい”と言うのだろうか。

  • 岡部牧夫ほか編、『中国侵略の証言者たち 「認罪」の記録を読む』、岩波新書

表題で見当がついた人も少なくないと思うが、中華人民共和国によって戦犯容疑者として拘束された旧日本軍将兵の供述調書を資料として、中国における日本軍の戦争犯罪、中国の戦犯裁判、中帰連の歩みなどを記述したもの。同じく岩波書店から『侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書』(新井利男・藤原彰編)が出版されたのはずいぶん以前のこと(1999年)なので、書店で見かけたときには「なぜこのタイミングで?」と思ったが、2005年に起訴された45名全員分の供述書が中国から提供されるなど、資料の公開状況に前進があったことをうけての研究・出版、とのこと。
“自白”については別の文脈でも関心をもっているので撫順・太原両収容所での取調べと自白についてもいつかきちんと考察してみたいと思っているのだが、さていつになることやら。