“戦争の経験を問う”ことについて
以前にちょこっと言及した岩波のシリーズ「戦争の経験を問う」、笠原十九司さんの『日本軍の治安戦――日中戦争の実相』が刊行されたのでいま読んでいるところです。同書では笠原さん自身の先行する業績として『岩波講座 アジア・太平洋戦争 5 戦場の諸相』に収録された「治安戦の思想と技術」が言及されているのですが、後者の目次と「戦争の経験を問う」の全巻構成を比較すると、このシリーズそのものが『戦場の諸相』の発展という側面をもっていることがわかります。笠原さん以外に両方に寄稿している研究者の書名(予定を含む)と論文名を「戦争の経験を問う」『戦場の諸相』の順に並べると次のようになります。
- 山田朗、『兵士たちの戦場――体験と記憶の歴史化』/「兵士たちの日中戦争」
- 吉田裕、『兵士たちの戦後史』/「アジア・太平洋戦争の戦場と兵士」
- 中村秀之、『〈特攻隊〉の系譜学――イメージと語りのポリティクス』/「特攻隊表象論」
別の著者によるものであるが近い主題を扱っているものを並べてみると次の通り。
- 山田朗、『兵士たちの戦場――体験と記憶の歴史化』/吉田裕、「アジア・太平洋戦争の戦場と兵士」
- 吉田裕、『兵士たちの戦後史』/木村卓滋、「軍人たちの戦後」
- 笠原十九司、『日本軍の治安戦――日中戦争の実相』/菊池一隆、「中国戦線における非正規戦の諸相」
また『戦場の諸相』との関連は執筆者の一人によって認められてもいます。
『岩波講座アジア・太平洋戦争』(全8巻)に参画したのは,「戦後60年」を迎えてのときであった.編集委員をはじめ,執筆者のほとんどが「戦後」生まれであり,先達たちが考察してきた「戦争経験」に基づくアジア・太平洋戦争研究を,60年を経た戦後状況のなかでいかに受け継ぐかという問題意識がみなぎっていた.
今回,そのときの成果をもとに,あらたにシリーズ「戦争の経験を問う」が開始される.(後略)
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/028371+/top2.html
これを書いた成田龍一さんは『戦場の諸相』では吉田裕さんと共著で前書きを書いているだけですが。
もちろん、一方が「戦場」の諸相を、他方が「戦争」の経験を問題にしている以上後者は前者の単純な焼き直しではありえず、事実上記のものをのぞけばそれぞれ異なる主題を扱った著作・論文が集められていることになります。
さて、今日「戦争の経験を問う」というとき、問題になることの一つは戦争の終結から数えてもすでに65年が経過しようとしている、ということです。改めてこんなことに言及したのは、Mukke さんの5月30日のエントリを拝見していたからです。もちろん、研究者はこの問題に自覚的です。
一つの時代の終わり
吉田 裕
一つの時代が終わろうとしている.戦後生まれが総人口の4分の3を超えることによって戦争体験世代は完全な少数派となり,生き残りの元兵士の数も100万人を大きく割り込んでいると推定される.従来の歴史学は,アジア・太平洋戦争の直接の記憶が生き生きと息づいている社会の中で,戦争の分析に取り組んできた.そこでは,体験者の記録や証言に基づいて戦争の実態を解明することが大きな課題として意識されていた.(後略)
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/028371+/top2.html
では今日、「戦争の経験」を問題にすることとはどのような営みになるのか? 上の二つの引用において「(後略)」とした部分で、二人はそれぞれ次のように述べています。「このことは,必然的に「戦争経験」を問うてきた「戦後」の位相も射程に収め,歴史化する営みとなってくる」(成田)、「しかし,そうした時代が終わろうとする今,一人ひとりの人間が経験したこと自体の歴史的意味を問い直す作業が求められていると思う」(吉田)。こうした観点から考えたとき、私は「語られてきたこと」ではなく「語られてこなかったこと」の大きさをこそ痛感します。*1
あと、これはまったく個人的な事柄なのですが、年をとってあの戦争を遠く感じるようになったか……というとむしろ逆なんですね。まあこの5、6年ばかり、それ以前にもましていろいろ読んだということもあるでしょうが、それ以前に「戦争が終わってから自分が生まれるまでの期間」より「自分が生まれてから現在までの期間」の方がずっと長くなっていることに改めて気づいたので。そういう風に考えると、戦争と自分の誕生を隔てる年月が大したものではないと思えてきます。