「連帯責任」じゃありません

松尾匡氏が当ブログに言及しておられるということをこちら経由で知る。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100820.html
「読んでない」と公言している本のタイトルをパロッたエントリタイトルだったので恐縮してしまうが、内容を拝見すると一連の経緯についてやや誤解があるようなので。なお、執筆意図について丁寧に説明していただいた点につき最初に謝意を述べてさせていただきます。

 簡潔な文章なので、目を通していただきたいのですが、いわゆるリフレ派の中にいる金子洋一議員が、「日韓併合は悪くない」的立場の言動をしていることに、demianさんが、言わば「連帯責任」を負わされているようです。

むしろ順番は逆です。私にとってきっかけになっているのは次のようなやりとり。

https://twitter.com/hatenademian/status/20716049671 これがあの「でみあん」か。
2010年8月10日 00:41:18JST
(http://twitter.com/usoki/status/20717270629)

@usoki なんかリフレ派に陶酔してから別キャラになりましたよね。
6:34 AM Aug 9th
(http://twitter.com/hokusyu82/status/20720887903)

「別キャラ」というのは揶揄を含んだ表現ではあるでしょうが、逆に以前にはより肯定的に評価していたことを含意するものでもあります。お二人が問題にしているのは次のつぶやきです。

うーん。謝罪外交やってなんかうまいこと実利を取って来れるのならいいけど、そういう戦略はあるんだろーか。それと党内なり政権内での手続きプロセスが謎すぎる。
5:24 AM Aug 9th
(https://twitter.com/hatenademian/status/20716049671)

この時点では問題の金子議員の発言はなされてませんから、他ならぬ彼自身の発言によって私が問題意識を喚起されているところに金子発言があった……という順番なのであって、demian氏は側杖を食ったわけでも「連帯責任」を負わされているわけでもなく、彼自身の発言についての責任を問おうとしているのです。「demianさんのエントリーでは、別に一言も金子洋一氏を支持することを書かれているわけでない」というのはその通りですが、ツイッターでは似たようなことを発言してしまっているわけです(私自身が言及したのはこちらですが)。
なぜこれらの発言を看過できないか? 彼は次のように書いています。

 戦前に停滞と失業を味わった人たちは、高橋是清らの政策によって恐慌自体は脱したものの、結局その後高橋是清らを殺害し、諸外国へ侵略の手を広げ、広島・長崎への原爆投下と敗戦への道を突き進むことになりました。国外にも国内にも莫大な犠牲を生むことになったのです。こうした過ちを繰り返さないためにも私たちは今、どうすればいいのでしょうか。
(http://d.hatena.ne.jp/demian/20100814/p1)

高橋是清らの政策」の前に満洲事変があったじゃないか、というのはさておき。このような書きぶりはおそらく、松尾さんが読者として左派を(も)想定していることを意識してのものだと思われます(右派にウケのいい書き方ではないですから)。しかしだとすれば「謝罪外交」などという産経御用達のフレーズがなんで出てくるのか? 「謝罪外交」の「実利」を求める人間が「こうした過ちを繰り返さないために」云々と説いてもそれを真に受ける左派は相当少ないでしょうし、リフレとセットでろくでもない政策がやってくることへの疑念をかき立てこそすれ、晴らすことはありません。まあその後の展開を見ていると左派の疑念はすべて「デフレへの誤解」へと回収されてしまって(後述)疑念をもつ方が悪い! ってことになっちゃってますけど。


次に「リフレ派の中にはいろんな立場の人がいて、中にはけしからぬ言動をする人もいるでしょうけど、その責任を全部負わさせたらかなわないという気はしますね」について。もちろん、ある見解をゆるやかに共有する人びとの集団について、その全員の言動に目を配ってなにか問題があればいちいち指摘する……などということは誰にであれ要求し得ることではありません(こちらだって要求されたら困る)。しかし民主党のデフレ脱却議連会長である松原仁の場合、米下院での「慰安婦」決議に関連した自爆広告 "THE FACTS" の賛同者に名を連ねた筋金入りです*1。先の首相談話についてもその前後に批判的な発言をしていることが報じられています。要するに民主党ウヨ議員の代表格であるわけで、なんらかの形(アカデミシャンとしての発言を含む)で政治に関わろうとする人間であれば「知らなかった」とか「そんな小物までチェックしてらんないよ」ですますことのできる人物ではない。
ところがこのレイシズム、セクシズム、歴史修正主義、と三拍子そろった大物が問題視されることがあまりに少ない。「そんなの一部の左翼だけが関心もってることでしょ」的態度が蔓延してます。これが例えば「靖国問題」であれば「人それぞれ意見があるだろうから」と譲ることもできましょう(ほんとは譲り難いけど)。しかしレイシズムとかセクシズム、歴史修正主義というのは「専門家だけがやっとけばいい」問題でしょうか? usokiさんが指摘されているように(これとかこれ)、リフレ政策が「不況下に追い詰められている人々の命を救うという目的」をもつというのであれば、基本的人権に関わる別のイシューについても本来無関心ではいられないはずで、もちろん専門や立場によってプライオリティのあり方はさまざまであってよいとはいえ、ほとんど誰も問題にしないというのはいくらなんでもひどいのではないでしょうか? また、特に研究者であるならば、歴史修正主義(や疑似科学代替医療など)のように学的知の権威を利用しつつ学的知を踏みにじる営為を他人事として見過ごしてよいのか? という問題もあります。歴史修正主義歴史学者(と左翼活動家)だけの問題として片付けるなら、インチキ経済学に専門外の人間が危機感をもたないことも「仕方ない」となってしまうのではないか? と私は危惧します。


次の論点。

 Apemanさんや、コメント欄にお書き込みの仲間のみなさんのような方々にこそ、是非拙著を読んでいただきたいと思っております。私がそこで主張しておりますのは、左翼的価値観の望むことを実現するためには、不況の脱却は必要条件だということです。十分条件ではないかもしれないが、必要条件。

繰り返し表明してきたように私は「リフレ政策」それ自体については一度も否定的なことを書いたことはありません。むしろ(bewaadさんに対する私の評価を知って意外に思った人が少なくないようですが)松尾さんが想定した読者の平均に比べればずっと好意的だと言ってよいでしょう。hokusyuさん、usokiさんが私ほど好意的かどうかは知りませんが、「リフレを含む政策パッケージ」への強い懐疑はあってもリフレ政策それ自体を否定しているわけじゃないことは明言されてましたし、deadletterさんの場合ははっきり「支持」するとおっしゃっている。
にもかかわらず、少なからぬネットリフレ派は私(たち)の批判がリフレに対する誤解に由来すると思い込み、デフレを脱却することの重要性を啓蒙すれば批判は止むと勘違いしている。いや別にそこで異論を唱えているわけではない、っちゅーのに。これは彼らがいかに私(たち)の問題関心を軽視しているかの証左でしょう。しかも「それはそれ、これはこれ」と切り分けなければ「見殺しにしている!」と恫喝*2
松尾さんは別にこの点で誤解しているわけではなく、リフレ政策の有効性について確信を深めれば私(たち)のプライオリティに変動を与えることができると考えておられるだけかもしれません。そりゃあ『不況は人災です!』を拝読すればリフレ政策の有効性についていまよりも強い信念をもつようになるかもしれません。しかしそのことによって、ネットにおける私の活動のプライオリティが変わることは残念ながらありえません。だって、素人が本一冊読んだだけでリフレの旗ふりって、それこそ無責任なはなしですから*3。他方、例えばいま自分の選挙区で補欠選挙があってレイシストでもセクシストでも歴史修正主義者でもない二人の有力候補がおり、ただ一方はデフレ脱却を訴えているのに対し他方は構造改革を訴えている……という状況であれば前者に投票するか、少なくとも後者には投票しない(まあ死に票投じるのには慣れてるし)、という程度のプライオリティならすでに「デフレ脱却」に与えてますからね。しかし仮に南京事件の実在と同じ水準での確信をリフレ政策の有効性について抱いたとしても、松原仁には投票できないことにも変わりはありませんが。

*1:他には南京事件否定論映画『南京の真実』の賛同者など。

*2:松尾さんが最後に問題にされている「“いま1万人を助けるために50年後に10万人が死ぬ”という取引ではないという保証」云々は、この種の恫喝への反論として意図されています。

*3:いやもちろん、近現代史や冤罪についてだって素人ですが、この2つについては自分でもある程度納得できるだけのリソースを投入しましたから。