『日中歴史認識』その後

先日読了。やはり「情報戦」という概念を軸として「田中上奏文」を考えようとするアプローチに違和感を覚える。曰く「「田中上奏文」に教訓があるとするなら、それは国際政治における情報戦の重みだろう」(325ページ)、「「田中上奏文」が示唆するのは、現代政治における宣伝とメディアの巨大な役割にほかならない」(326ページ)、といった具合。日本側の国際宣伝も一定の効果をあげていたことは著者も認める通りであり、それ以上に日本側が「情報戦」で得点を稼ぐ余地があったのか? という疑問がまずは浮かぶ。さらに、仮に満洲事件後の「情報戦」で日本が史実以上の成果をあげたとして、その先に中長期的な「国益」にかなうような展望を描くことが出来るのか? という疑問がある。ここで「国益」に言及したのは著者がまさにそうした観点から松岡・顧論争を評価している(「情報戦の場で真偽論争に訴えることは、その主張が正しくても国益を利するとは限らないのである」(同所))からだが、その「国益」なるものがいったい何とひきかえに確保されることになるのか、ということもまた問われなければならない筈だ。
「歴史研究の観点からするなら、なぜ明らかに偽書の「田中上奏文」が諸外国で本物と信じられやすく、日本と乖離が生じるのかと自問すべきだろう」(325ページ)と著者は言うが、加害/被害の非対称性を考慮に入れずにこの問いに答えることはできないはずだ。これとの関係で興味深いのは、「日中歴史共同研究」にも参加した著者が、日中それぞれの研究者の傾向について次のように述べていることである。

 報告書の全体的な傾向としては、中国側が日本による侵略の計画性と一貫性を強調するのに対して、日本側は多様な可能性を近代史に見出し、日本の政策過程も一枚岩からはほど遠かったと解する。
(313ページ)

これは他の研究者たちの評価ともほぼ一致しており、妥当な観察なのだろう。私自身、歴史学の文献を読む時には、(中国側研究者との対比で)日本の研究者が好むアプローチのものの方が、はるかに知的満足度は高い。他方で、そのような歴史記述がともすれば「責任」を蒸発させてしまうのではないか、という懸念を杞憂だと簡単に片付けてしまうこともできないのではないか。とすれば、「田中上奏文」をめぐる内外の(特に日中の)「齟齬」は、歴史学的な語りと「責任」との関係を考慮に入れることなしには、十全に解き明かすことができないのではないだろうか。