『南京虐殺は「おこった」のか』

Apple のネットワークサービスが iCloud になったことにともない消滅した旧本館にアップした記事(06年7月23日)を、一部手直しして再掲。日韓の(日中の)対立を韓国の(中国の)歴史教育に帰責しようとする発想についての議論を TL上で見かけたので。今なら「自称中立」って言葉も使ったかな。

著者は執筆当時帝京大学助教授。本書の元となった論文で博士号を取得している。
著者の結論を先に紹介しよう。

 日本の高校歴史教科書は偏向している。
 この偏向は世界史の教科書よりも日本史の教科書にはっきり表れている。
 この偏向は責任の欠如や強制の欠如というイデオロギーを表明している。
 このイデオロギーは日本国の権力保持者の面子を守ろうと努めている。
 権力保持者の面子を守ることは、現代日本国家の権力構造を維持する重要な構成要素である。
(142ページ)

著者は1995年度に使用されていた高校教科書88冊(新旧二つの学習指導要領に基づく教科書が混在していたので、通常の年より数が多い)を分析対象とし、特に「南京事件」「太平洋戦争の開始」「日本の降伏」についての記述を検討する。その分析において用いられている対概念が「開かれた文」「閉じられた文」である。つまり教科書の記述を読んだ生徒からより多くの問いを引き出すのが「開かれた文」であり、自己完結的でそれ以上の考察を喚起しない記述が「閉じられた文」である。著者によれば、前記3点についての日本の教科書の記述は(他の事件についての記述に比べて)有意に「閉じられた文」が多い。
著者の議論を評価するには結局のところすべてを読んでいただくしかないので、ここではごく簡単に実例をば紹介する。
まず南京事件について。本書のタイトルにもあるような「南京事件が起こった」といった記述が「虐殺の主体」を隠蔽し、あたかも自然災害であるかのようなものになっていることは直観的にも明らかだろう。例えば、同じ教科書の同じ頁にある次の二つの記述。

日本軍は上海にも軍を進め、12月、南京を攻略したが、このときに南京虐殺事件が起こった。

1919年4月、インド北西部のアムリットサルでイギリス兵が大群衆に向けて発砲、1500人の死傷者が出た。

日本の歴史教科書が後者においてより明確、かつ具体的な記述を行なうべき理由はただの一つも思いつかない。
次いで開戦。ここではドイツについての記述との比較対象がなされている。

1939年8月、ドイツはとつぜんソビエトと不可侵条約を結び、ついで9月、ポーランドに攻撃を開始した。これにたいし、イギリス・フランスはただちにドイツに宣戦を布告して、第二次世界大戦がはじまった。

1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、アメリカ艦隊に大損害を与えた。その直後に、日本はアメリカ・イギリスなどに宣戦を布告し、ここに太平洋戦争がはじまった。日本は同日マライ(ママ)半島にも奇襲上陸を行おこなった。

前者では「攻撃」の主体も対象も国家であるのに対し、後者ではなぜか「日本軍」と「アメリカ艦隊」である。時間的にはもっとも早い出来事であるマレー半島への上陸が一番最後に、まるで付け足しのように記述されていることにも注目されたい。
最後に降伏についての記述。最初の2点が日本(軍)の責任を消し去ろうとする動機をはらんでいるのに対して、ここでは「強制の欠如」というイデオロギーが現われている、と著者は言う。例えば次の記述。

 軍部は本土決戦を叫んで、なお戦争を継続しようとしたが、政府は8月14日、天皇の裁断により、ついにポツダム宣言を受諾することをきめ、翌日、天皇はラジオを通じて、みずからこれを国民に告げた。
 9月2日、東京湾上のアメリカ軍艦ミズーリ号において、連合国代表と日本代表のあいだに、降伏文書の調印式がおこなわれた。

ここで「日本は降伏した」という端的な記述が避けられているのはなぜか? というわけである。
日本政府の「責任の欠如と強制の欠如」が日本の歴史教科書に隠れたイデオロギーだというのは困惑させられる主張である。というのも、通常ひとが責任を問われるのは行為への強制が欠如していたときであり、行為が強制されたものであるときには(その強制の種類や度合いにもよるが)責任は免じられるのが普通だからである。しかしちょっと考えてみれば、これが権力者にとって途方もなく都合のよいイデオロギーであることがわかる。「われわれはなに一つ強制されることのない強い国家であるが、同時に誰に対しても責任をとらなくてよい」というのだから。
もちろん、本全体としてはもっと多くの事例に基づいた議論がなされているので、上記はあくまでサンプルとお考えいただきたい。


本書への不満も2点ほど指摘しておきたい。まず対照例が十分ではない。ドイツやイタリアについての記述が対照例として用いられてはいるのだが、他方で日本(の権力者)が通常「誇るべき事柄」と考えているような事件についての記述も対照例として用意するべきだったろう。第二に、著者があぶり出す記述の違いが生徒に与える影響についての理論的な説明が乏しい。直観的には「なるほど」と思わされるところも多いのだが、もう少し理論的な裏づけがあればさらに説得的になったであろう。ただ、1冊の本、1人の研究者にすべてを要求するのは不当でもあるから、後に続く研究が表われることを期待したい。