座り込んで頭を抱える海兵隊員

前述の「狂気の戦場 ペリリュー〜"忘れられた島"の記録〜」で描かれた「正気」。

岩山での戦いのさなか、日本兵が突然銃剣で襲いかかってきた。私は、彼の腹に2発撃ち込んだ。倒れた彼の懐から一枚の写真がのぞいていた。手にとってみると、彼が両親と幼い妹と一緒に写っていた。いったいなんてことをしてしまったんだろう。私は大きなショックを受け、言葉を失った。

ナレーションが「兵士は顔を覆い、うなだれたまま、いつまでもその場から動けなかったといいます」と続く。ただ抽象的に「敵である」だけでなく武器を持って自分に襲いかかってくる人間を殺したにもかかわらず、である。

これとそっくりなエピソードをデーヴ・グロスマンらが紹介している。

(……)あるベトナム帰還兵は、若い北ベトナム軍兵士を殺したとき、その財布から一枚の写真を抜き取ってきた。それには、その兵士自身といっしょにかわいい少女が写っていた。二〇年後、古ぼけてぼろぼろになったその写真に彼はメモを書いて添え、ワシントンDCのベトナム戦没者記念碑の足もとに供えている。

 二二年間、私はこの写真を財布に入れて持ち歩いてきた。ベトナムのチュライのあの道であなたに出会ったとき、私はまだ一八歳だった。なぜあなたが私の命を奪わなかったのか、それがわかる日は来ないだろう。あなたは長いこと私をじっと見つめていた。AK47でこちらに狙いをつけていながら、ついに発砲しなかった。そんなあなたの命を奪った私を赦してほしい。ベトコンを殺せと訓練されてきて、その訓練のとおりに身体が動いてしまったのだ……この年月、私は何度この写真を取り出したか知れない。あなたとあなたのお嬢さんの顔を見るたびに、苦しみと罪悪感で胸もはらわたも焼かれるようだった。いまは私にも娘がふたりいる……あなたは祖国を守ろうと戦う勇敢な戦士だったのだと、いまなら私にもわかる。だがなによりも、あなたが奪うことをためらった生命の尊さを、いまの私は尊重できるようになった。たぶんだからこそ、今日ここに来ることができたのだろう……目を前に向け、苦しみと罪悪感を解き放つべき時が来たのだ。どうか私を赦してください。

(デーヴ・グロスマン&ローレン・W・クリステンセン、『「戦争」の心理学』、二見書房、12-13ページ)

どちらのエピソードにも共通する「写真」は、殺した相手を人間として認識する手がかりとして機能した、ということなのだろう。