『戦場体験者 沈黙の記録』

筑摩書房のPR誌『ちくま』での連載をまとめたもの。著者が聞き取りをしてきた旧軍関係者の証言を紹介しつつ、それらが戦後の日本社会で公にはほとんど語られなかった、という意味での「沈黙」の意味を考える、という内容。
保阪氏の戦争関連の著作はそこそこ読んでいるものの、特にこの2、3年はあまりフォローしていなかったので誤った印象であるかもしれないが、旧日本軍の残虐行為について以前の著作よりも踏み込んだ紹介をしているように思った。取材対象者がほぼすべて亡くなっている……という事情によるのかもしれない。


もう一つ、従来に比べて踏み込んで書いているなと思ったのが旧日本軍「慰安所」問題。これまでは意識的に避けていると思わざるをえないくらい、言及が少なかったように思う。本書の第4章「軍隊と性の病理」が丸々この問題にあてられている。
この4章を読んでいて非常に違和感があるのは、先行研究がほとんど無視されているということ。実際に踏まえていないのか、「先行研究には依拠しませんよ」というポーズなのかはわからないが。「この問題については、現代社会では従軍慰安婦問題が採りあげられているが、それとはまったく別の視点で軍隊と性について考える必要があり」(140ページ)とか「本書ではこのところ問題になっている従軍慰安婦に直接触れるつもりはなく」(156ページ)といった具合に独自性が強調されているのだが、正直に言って日本軍「慰安婦」問題についての先行研究(プラス、右派がしばしば用いる弁明の一部)では得られない知見を本書に見出すことはほとんどできなかった。第4章は主に元軍医からの聞き取りに依拠しているのだが、元軍医の作成した文書(本書で援用されている麻生軍医の「花柳病ノ積極的予防法」を含め)、証言、従軍記などは先行研究でも重視されてきたのだから、ある意味ではあたりまえのことだが。もちろん、だからといって本書(の第4章)に価値がないわけではないが、無理矢理に日本軍「慰安婦」問題(著者の言葉では「従軍慰安婦問題」)から距離をとろうとする不自然さを感じてしまう*1。例えば「兵士たちがまるで慰安婦を連れ歩いていて、戦闘の合い間に性交渉を行っていたかのような妄言を吐く論者がいる」(151ページ)とその「論者」を特定せぬまま批判されているが、「慰安所」の発明者を自認していた岡村寧次がそうした証言を残していることを知らないはずはないだろうに。
旧軍関係者の視点に寄り添おうとしたことの帰結なのかもしれないが、日本軍「慰安所」制度について首尾一貫した像を描き出すことに失敗している、とも思う。4章の前半では「性病」が日本軍にとっていかに大きな脅威と関心事であったかがこれでもか、と強調されている。ところが、ある軍医の証言による「兵士が慰安所に通う理由」として紹介されるのは、“規則ずくめの軍隊生活からの解放”、“女性との会話”、“読書をしたり書き物をしたりする時間”、“タバコや菓子、黙想”の4項目(164ページから要約)であり、「性が決して目的ではなかった者も多い」ことが強調されている。しかし買春施設に行って本を読んだりお喋りをするだけで帰る兵士が本当に多かったのであれば、性感染症の蔓延がそれほど深刻な問題になることもないはずである。「性が決して目的ではなかった者」の存在が過大評価されている可能性に留意すべきであろう。


また性暴力についての認識も――この世代の男性としては珍しいことではないが――問題が多い*2。例えば次のような一節。

 ある兵士は、自分の食料品の一部を残しておいて彼女たちに渡し、その歓心を買うことも珍しくなかったし、そういう女性との屈折した愛情を持つ者もなかにいたと話している。そのことはコンドームなしでセックスをするのですぐにわかると補足していた。
(163ページ)

絵に描いたような“男目線の回想”が男目線で無批判に引用されている。ここには「不特定多数との性交渉を強いられている女性にとっては特に、性感染症と妊娠のリスクを伴う“コンドームなしのセックス”は性暴力の一形態となる」という発想はまるでみられない。このあたりは保阪氏の限界として念頭に置いて読まれるべき本であろう。

*1:著者のこうした姿勢は2014年の「朝日新聞第三者委員会」報告書における保阪委員の個別意見にも現れているように思う。

*2:このエントリでは詳述しないが、性暴力を「性欲」の発露とみる認識も露呈している。