「南京問題小委員会の調査検証の総括」批判のために(1)

はじめに
日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の南京問題小委員会は去る平成19年6月19日付けで「南京問題小委員会の調査検証の総括」(以下、「総括」と略記)なる文書を公表した。その後、この「総括」をベースに『南京の実相 国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった』(水間政憲著、日新報道社)が刊行されている。
「総括」は「日本の政治家も日中間の歴史認識問題に関して、客観的一次資料に基づく基本的知識が必要」という判断に基づいて調査・作成されたものとされ、「第百会期国際連盟理事会(一九三八年一月二十六日〜二月二日)の議事録」こそが「白眉の史料」であるとし、「南京虐殺」がなかったことを示す「状況証拠を裏付ける事のできる決定的資料である」と主張している。


もとより、歴史的な出来事を再構成するうえで「一次資料」が重要であることに異論はない。ただし、重要なのは(1)個々の資料を他の資料との関係で意味付け、評価し、(2)個々の資料がなにを物語りなにを物語ってはいないのかを正確に見定めること、そして(3)できる限り多くの資料から出来事の全体像を描き出すよう努めること、である。
結論を先に延べるなら、「総括」における第百会期国際連盟理事会議事録の取り扱いはきわめてずさんなものであり、史実に迫る方法としては妥当でないと言わざるを得ない。以下では「総括」の中心的な主張に関連して、その資料評価の誤りを明らかにしてゆく。なお、それ以外にも「総括」は多くの事実誤認や憶断を含んでいるが、それらについては「付記」として簡潔に指摘するにとどめる。


顧維鈞演説の「二万人」はなにを意味するか
「総括」は第百会期国際連盟理事会において中国代表顧維鈞が行なった演説中、南京における「二万人の虐殺と数千の女性への暴行」に言及した箇所があることに注目している。「中国としても一番正確に把握していた時」「南京の状況を一番把握していた当時」に挙げられた数字であるにもかかわらず、「東京裁判での二十万人や中国側が昨年まで主張していた公式見解三十万人と桁が違う」、というのである。ただし、「総括」が「二万人」という犠牲者数推定を受けいれるのかどうかについては態度は明確にされていない。顧維鈞が依拠した欧米の報道をなんら具体的根拠挙げることなく「デマ」と断じ、「二万人」を「当時の「政治的犠牲者数」と評していることから、実際の犠牲者数はさらに少ないと印象づける意図は明白である。


議事録に残された顧維鈞演説から直接明らかになるのはどのようなことだろうか? 中国政府が当時虐殺の犠牲者数を「二万人」と推定していたこと、ではない。まして実際の犠牲者数が「二万人」であったということでもない。われわれが顧維鈞演説から直ちに判断しうるのは、当時の中国政府が、南京における日本軍の蛮行を国際社会にアピールする際の手段として、欧米メディアによる報道を参照するのが最善であると判断した、ということに過ぎない。外交、あるいは政治という領域では、自らの認識と要求とを愚直に表明することは意味をなさない。そのことは「南京問題小委員会」の議員諸氏が誰よりもよく承知しているはずのことである。当時中国政府が南京における旧日本軍の戦争犯罪についてどのような認識を抱いていたかは、さらに他の資料に依拠しなければ明らかにすることはできない。南京事件、すなわち南京攻略戦において発生した旧日本軍による戦争犯罪の全貌を明らかにするという目的にとっては、顧維鈞演説ないしそれを含む第百会期国際連盟理事会・議事録は「白眉の史料」などではない。捕虜の殺害を記録した旧日本軍の戦闘詳報、参戦将兵の陣中日記、目撃者や生存者の証言などと比較すれば、むしろ些末な資料であると言うべきである。
また、1938年1月から2月の時期を中国政府が「南京の状況を一番把握していた当時」、南京での虐殺について「中国としても一番正確に把握していた時」である、とすることはなんら実証的根拠をもたないだけでなく、健全な常識に反する暴論である。北朝鮮による日本人拉致について日本政府が「状況を一番把握していた」のは、拉致事件が起きた1970年代後半から80年代前半であるはずだ、と言われて納得する日本人がいるだろうか? 当時の中国は政府、軍の諸機関を重慶および漢口に移しており、日本軍が占領している南京およびその周辺地域において中国政府が被害調査を行なうことなどもちろんできなかった。南京に残留した少数の欧米人の情報に基づく報道と、南京からの脱出に成功した中国軍将兵および市民からの断片的な情報だけが、当時の中国政府にとって入手可能なものだったのである。このような状況下では、中国政府自身の(不完全な)調査結果より欧米メディアの報道の方が国際社会に対して説得力をもつ、と顧維鈞が考えたとしてもなんら不自然なところはない。


顧維鈞はなにを訴えたのか
「総括」は顧維鈞中国代表が国際連盟の「行動を要求」したにもかかわらず、「一九三七年十月六日の南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のように採択しなかった」「国際連盟の会議の場で顧中国代表が「南京虐殺」を訴えても無視された」ことを強調する。だがこの事実が意味するところについては、「総括」の主張はきわめて曖昧である。深刻な人権侵害が発生していることを認知したからといって、国際社会が直ちに有効な対策を立て、実行できるとは限らないことは、ダルフールチベット、ガザなどの例からも明らかであり、また北朝鮮の核開発や拉致問題を通じて日本社会が痛感していることである。
また、顧維鈞演説は特に南京での虐殺に対してのみ、国際社会の「行動」を要求しているわけではない。「総括」が引用している「第百会期国際連盟理事会の議事録に於ける日支問題討議の経緯」も「日本の侵略の事実、日本軍の暴行、第三国の権益侵害、等を述べ連盟の行動を要求する趣旨の演説」を行なった、としている通りである。したがってこの時点での国際連盟の不作為もまた、特に南京での虐殺、性暴力のみに関わることではない。この意味でも議事録は南京事件についての「白眉の史料」などではなく、数多くの資料に基づき明らかにされてきた南京事件の実像をいささかなりとも揺るがすものではない。
さらに、国際連盟理事会は中国政府の提訴をまったく無視したわけではない。決議案は「前回の理事会以降も、中国での紛争が継続し、さらに激化している事実を遺憾の念とともに銘記」し、「総括」も言及している37年10月6日の決議を「想起」し、加盟国に対しこの決議への「最大限の注意を喚起」し、理事会加盟国が紛争解決のため「今後のあらゆる手段の可能性を検討するいかなる機会も逸さないことを確信」するとしているのであり(『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』、136ページ)、経済制裁などの踏み込んだ決議こそ行なわれなかったものの、「国民政府支援の方針を維持」し「国民政府を見離さざる「ジェスチュアー」を示し」た点は「注意に値する」とは、先の「第百会期国際連盟理事会の議事録に於ける日支問題討議の経緯」も認めているところである。


以上に見たように、第百会期国際連盟理事会の議事録は日中戦争初期における国際社会の対応を物語る資料ではあっても、南京における日本軍の戦争犯罪に関して直接なにごとかを明らかにするような資料ではなく、まして「白眉の資料」などではない。「総括」は「客観的一次資料に基づく基本的知識が必要」と称しながら、日本軍の戦争犯罪を証拠立てる数多くの「一次資料」をまったく無視するという、きわめて欺瞞的なものである。