「政治」からの逃避

「南京問題小委員会の調査検証の総括」に関して興味深いのは、政治家たちが集まって作成したこの文書に「政治」への侮蔑が現れている、ということである。顧維鈞が国際連盟理事会で行った演説中の「二万人」が「政治的犠牲者数」である、という主張のことだ。外交官が国際政治の場で発言することが徹頭徹尾「政治的」であるのは当たり前じゃないか! 国会議員ともあろう者がそんなことを何かしら指摘に値することだと思い得た、というのはまことに驚くべきことである。小委員会のメンバーは自分たちが普段国政の場で口にしていることが嘘八百ばかりだと言いたいのだろうか? そうでもなければ、顧維鈞演説の「政治」性を言い立てることはなんの意味も持たないのである。


もちろん、政治においては真実性の要求は最優先されるとは限らない。役に立たない真実より役に立つ嘘が採用されうる(そして正当化されうる)領域だ、ということもできるだろう。「政治的」を「目的のためには真実を枉げることも辞さない」と理解するのであれば、一方で吉見義明とか笠原十九司といった、他方で秦郁彦とか伊藤隆といった研究者は「あなたのやっていることは政治的な議論なんじゃないですか?」と問われれば憤慨するだろうし(実際に聞いてみたことはないけど)、憤慨してもらいたいものだとも思う。しかしながら、“あの戦争”に関する議論が政治性を免れるなどということはおよそあり得ないことでもある。すべての歴史は政治的である、などといった一般論の域を超えて。だって、現在の国際社会の、特に東アジアとかヨーロッパの国際秩序はいまだ第二次世界大戦の経緯と結果によって大きく規定されているんだから。戦前の日本と現在の日本は連続性と断絶が複雑に絡み合ったしかたで関係している(断絶も関係の一形態だ)のだから。小泉〜麻生まで過去四代の日本の首相の父親ないし(および)祖父は戦前および戦中の支配者層に属していたのだから。少なからぬ現代日本人は数等親以内にアジア・太平洋戦争で殺されたか、あるいは人を殺した親戚をもっているのだから。そんな戦争についての議論が「政治的」でないはずがあろうか?
以前に『月刊現代』への寄稿をとりあげたことのある、元オランダ大使東郷和彦が昨年末に講談社現代新書から『歴史と外交─靖国・アジア・東京裁判』という本を出していて、悪いけどまだちょっと立ち読みしただけなんだけど、その中で“従軍慰安婦についての吉見義明と秦郁彦の主張は実はそれほど隔たっていない”という趣旨のことを書いている。そう言われるとまずは当のお二人が大反発するのか、それとも案外「実はそうなんだよ」とおっしゃるのかわからないが、私見ではこの東郷氏の観察は少なくとも的外れではない。両氏の主張が鋭く対立しているのは“慰安所制度の実態がどのようなものであったか”という点以上に、慰安所制度をどう評価するかという点においてであるように思われるから。そうだとするとこれは結局、いま現在われわれが性暴力をどう考えるかというところに大きく依存する問題であって、狭い意味での実証史学のフィールドでは絶対に決着がつかない問題を、少なくともその本質的な部分において含んでいるのだ。性暴力をどのように認識し、それにどう対処する社会を望むのか…という政治文化をめぐる闘争は、「慰安婦」問題の不可欠な一部である。それによって問題が不純になる…というのではなく、もともとそういう問題なのだ。
南京事件の犠牲者数推定についても同じような側面はある。例えば海軍の第3艦隊第11戦隊が12月13日に揚子江上で“殲滅”した約1万人は笠原説では犠牲者と数えられており、秦説では数えられていない。しかし秦版『南京事件』でも第11戦隊による敗残兵の殺害は記述されていて、「1万」という数字については「陸上部隊による戦果と重複」していて「誇大」なのではないかと推理されているものの、殺害の事実自体は否定されていない。二人を分けているのは(中国軍将兵の殺害について)「捕われて殺害された中国兵」(秦版『南京事件』、210ページ)だけを「虐殺」の犠牲者と見るか、より広義に「虐殺」を理解するか、の違いである。しかし歴史学が前提できるような「虐殺」の一義的な定義があるわけではないし、なにが「虐殺」かは実証史学の土俵で決着のつく問題ではない。これまた政治文化の問題、“戦意を失い、多くは武器も棄てて逃亡する敗残兵の集団、しかも少なからず民間人が混じっている集団を攻撃すること”を是とする世界を望むか、非とする世界を望むのか、という選択の問題なのだ。

pbh 個人的に「慰安婦」は「売春婦」の婉曲表現に過ぎない「援交」のような。と思うので、この差異を重大視してる人は産経も、「捏造」と言ってる人も方向性は違えど政治的意図があんだろなとか穿っちゃうようになった。 2009/01/11
(http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090109/p1)

「政治的意図」は別に「穿っちゃう」ものではなく普通に読み取ればいいもんでしょ。産經新聞とかその周辺であれこれ書きまくってる論者ははっきりと「情報戦」って言ってるんだから、「政治的意図」がないはずないし。そしてある「政治的意図」に対抗しようとする企てが「政治的」でないはずもないし。南京事件にしても従軍「慰安婦」問題にしても、あるいは沖縄戦「集団事件」にしても、論争が「政治的」だってのをコミットしない口実にする人がいるけれど、そういう人はあれだろうか。論争が非政治的で純粋に学術的だったら、なんかしてくれるんだろうか?
「政治においては真実性の要求は最優先されるとは限らない」とは言ったが、それは「政治的な主張は常に真実を歪める」ということを意味しない。当たり前だけど。だって、政治的な目的を達成するうえでも、真実性の要求に可能な限り従うことは合理的だから。嘘がバレないのであれば、あるいはせめて「時すでに遅し」となるまでバレないのであれば、嘘をつくこと(情報の隠蔽を含む)は政治的には合理的であると言いうる(もちろん、その政治的目標の妥当性は別に問われることになるが)。だが原理的にバレることがない嘘なんてないし、現実問題としても嘘はたいてい暴かれるものである。特に対抗しあう勢力間でさかんに相手の嘘を暴露する努力がなされるような領域では。だから原理論としては私も“真実性の要求に従うか、それとも政治を優先するか”という選択を迫られた時にどうすべきか…という問いを逃れることはできないけれども、実際問題としてはそんなシビアな立場に立たされる−−すなわち南京事件とか従軍「慰安婦」問題についての通説を根底から覆すような情報を私一人が握っていて、公表するもしないも私次第、みたいな−−ことがあるとは思えない。普段は講演会とか証言集会のようなイベントに出かけてもこのブログではとりあげないことが多い−−書籍や公開されている公文書と違って、参加しなかった人と情報を共有できないから、という単純な理由で−−のに今回敢えて山下さんの講演に言及したのは、性暴力の普遍的な構造を問題にするという真実性の要求でもあったけれど、政治的なダメージ・コントロールでもあって、両者の間に葛藤はない。むしろ(今回出てきたわけではないけど)「GHQがRAAの設立を命じた」みたいなちょっと調べればすぐわかる嘘をついてしまうのが不思議だ。読者を舐めてるとしか思えないんだけど、舐められてハラは立たない?

ガザにおける白燐弾の使用

毎日新聞この記事で言及されている「元英軍少佐の軍事専門家、チャールズ・ヘイマン氏」のコメント。

  • Times Online, December 5, 2008, "Israel rains fire on Gaza with phosphorus shells"

The Geneva Treaty of 1980 stipulates that white phosphorus should not be used as a weapon of war in civilian areas, but there is no blanket ban under international law on its use as a smokescreen or for illumination. However, Charles Heyman, a military expert and former major in the British Army, said: “If white phosphorus was deliberately fired at a crowd of people someone would end up in The Hague. White phosphorus is also a terror weapon. The descending blobs of phosphorus will burn when in contact with skin.”

ちなみにイスラエルICCの「国際刑事裁判所に関するローマ規程」(リンク先はPDF)を締結していないようなので、「特別の合意」がなければイスラエルではICCは権限を行使できないようである。素人判断だけど。