「自己」批判について

上のエントリに対してbewaadさんからご返答をいただきました。私の意図について一定の理解を示してくださったうえで、次のように仰っています。

しかしそうであればなおのこと、あえて「右派」による便乗の可能性に目をつぶってでも、自己批判をつきつめて欲しい気がwebmasterにはするのです。冷戦終結後に真摯な自己批判がなされなかったことが日本の左翼の退潮をもたらしたと指摘し続けているのは呉智英さんですが、それらをひっくるめて、「この社会のマジョリティ」に責任を認めようとするならば、それらから遊離してしまったことにまずは直面すべきではないでしょうか。

わざわざこのようなことを書かれるのも、ご自身の政治的信条は別として「自由な社会のなかで左派が適切な政治的活動を行うことには価値がある」と考えておられればこそだと思いますから、自分を左派と認識している人間がbewaadさんのエントリを(bewaadさん自身の意図はどうあれ)左派への一種のエールとして理解することはできるし、またそうした方が建設的であろう、ということはよく分かります。これはあまりでかい声では言いたくないのですが、このブログで戦後補償裁判――たいていは原告敗訴という結果をうけて――をとりあげたエントリをご覧いただければ、「不当判決!」的な書き方を基本的にはしていないことがおわかりいただけるはずです。(大沼本の刊行以前から)この種の訴訟で原告が勝訴する見込みは限りなく低いという認識を前提とし、はたして裁判所に(のみ)大胆な法解釈を求めることが戦後補償のあり方として正しいのか? という疑問をもっていればこそです。最高裁第一、第二、第三各小法廷が同じ日に立て続けに原告敗訴の判決を出し、裁判闘争路線にとっては決定的な敗北となったことについてのエントリで私は次のように書いています

27日の朝日夕刊には「政府に救済押し付け」という小見出し最高裁批判の一節があるのだが、これについてはむしろ逆の見方も出来る。新たな立法措置による補償は可能なのに、それをしようとしないのは政府であり国会であり、要するに日本の有権者である。それを最高裁に「押し付け」てはいないか? と。

さらに踏み込んで原告の支援団体をハッキリ批判してないじゃないか、と言われればその通りですが、コミットメントの度合いがはるかに低い者としては(ここが大沼氏と私の立場の違いの一つです)、なかなかそれは容易なことではありません。つまり「自己批判」を問題にする場合に私自身の立場は微妙なものとならざるを得ないということです。というのも、私は「この社会のマジョリティ」から「遊離してしまった」左派アクティヴィストではなく、彼らを「遊離」させてしまった心情左翼だったからです。当時、積極的にはなにもしなかった多数派の中の一人であり、「自己批判」ならばまずはそちらについて行なうのが順序というものだからです。