ある序文

昨日の古書店巡りの途中で奥崎謙三の家に遭遇してしまったことは本館で書いたが、その折の収穫。中国帰還者連絡会・新読書社編、『侵略 中国における日本戦犯の告白』(新読書社)。初版が1958年、82年に新版新装第1刷が、84年に新版・増補第1刷が発行されており、私が手に入れたのはこの84年版。これにも初版以来の次のような「序文」が付されている。

私は、本書を読むとき、真に胸をえぐられるような苦痛をおぼえる。
それは、私もまた日華事変いらい、わが国の運命をあやまらしめた、侵略政策に責任あるものの一人であるということを、痛切に思いださずにおれないからである。そしてそれを思いだすごとに、深刻な反省をうながされずにはいられないからである。
当時の日本の指導層によって行われた中国侵略と、その軍隊の行為が、どのようなものであったかということを、この書ほどはっきりと白日の下にさらけ出したものは、他にないのではなかろうか。
(…)
本書において告白せられている、戦争犯罪の数々は、正に人をして読むに堪えざらしむるものがある。もし、わが父母、わが兄弟、わが妻、わが夫、そしてわが子がこのような運命の下におかれたとしたならばどうであろうか。思えば、なさけなさ、それに、つらさ、くやしさ、いきどおりとに、身も心も、打ちふるえるのである。これらの行為は天人ともに許さざるところと、おもわずにはおれまい。
しかしながら、その事実をかくも赤裸々に告白している本書の執筆者たちも、よく考えてみると、実は指導者たちの打ち立てた侵略政策の下、戦争にまきこまれていった気の毒な犠牲者たちであったともいえる。
その経歴をみればわかるように、すべて善良で平凡な一日本人ばかりである。それが侵略戦争という、おそろしい政治の中にまきこまれ、人間性を失い、自らを忘れ、残虐な殺人機械に仕立てられてしまったのである。
いま私は、同じ日本人として、これらの人々を責める気もちにはなれない。
そうでなくてもこのような残虐を強制し、これらの人々の人間性をこのように失わしめた、かつての政治とその責任者こそ、その罪をうけねばならないのだとおもうのである。
(…)
これらの告白は、決して日本民族の弱さを物語るものではなく、逆に、かつてのあやまちをくりかえさない決意を固めている、日本民族の強さを示しているものであるし、また必ず、そうでなければならないと思う。
(…)

この序文の著者は風見章、日中戦争勃発時の第一次近衛内閣で内閣書記官長の職にあった人物である。


中帰連といえばある種の人々に脊髄反射的言動を引き起こさせるキーワードである。なかには、旧軍に不利な証言をした人間はだれかれかまわず中帰連認定する輩までいる。私もいちいち反論するのが面倒だからという理由で、ついつい中帰連のメンバーによる証言を資料として利用するのをためらったりしてしまうのだが、いうまでもなく身柄拘束を解かれてから半世紀も効果が持続するような「洗脳」など存在しない。また本書で記述されているような戦争犯罪は、個別事例としてはともかく類型としては、中帰連とはなんの関係もない証言や資料によって裏づけを得ることができるのである。
なお、松原仁アイリス・チャンいちゃもんをつける際にひきあいに出した写真、「我が兵士に守られて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群」として『アサヒグラフ』に掲載された写真は、本書でも「1938年 江南の農村婦人は大量に日本軍司令部に連行されて、陵辱のうえ銃殺された」というキャプションつきで使用(誤用)されている。アイリス・チャンが「黒く塗った」とかなんとかそういう問題じゃない、ということを逆説的に証明しているわけである。