「ダーン、ダーン。」
ものすごい大砲の音とともに、あたりの土が高くはねあがります。機関銃の弾が、雨あられのように飛んできます。
昭和七年二月二十二日の午前五時、廟巷の敵前、わずか五〇メートルという地点です。今、わが工兵は、三人ずつ組になって、長い破壊筒をかかえながら、敵の陣地を、にらんでいます。
見れば、敵の陣地には、ぎっしりと、鉄条網が張りめぐらされています。この鉄条網に破壊筒を投げこんで、わが歩兵のために、突撃の道を作ろうというのです。しかもその突撃まで、時間は、あと三十分というせっぱつまった場合でありました。
工兵は、今か今かと、命令のくだるのを待っています。しかし、この時とばかり撃ち出す敵の弾には、ほとんど、顔を向けることができません。すると、わが歩兵も、さかんに機関銃を撃ち出しました。そうして敵前一面に、もうもうと、煙幕を張りました。
「前進」
の命令がくだりました。待ちに待った第一班の工兵は、勇んで鉄条網へ突進しました。
一〇メートル進みました。二〇メートル進みました。あと十四、五メートルで鉄条網という時、頼みとする煙幕が、だんだんうすくなって来ました。
一人倒れ、二人倒れ、三人、四人、五人と、次々に倒れて行きます。第一班は、残念にも、とうとう成功しないで終わりました。
第二班に、命令がくだりました。
敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあいません。そこで班長は、まず破壊筒の火なわに、火をつけることを命じました。
作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりとかかえ、鉄条網めがけて突進しました。
北川が先頭に立ち、江下、作江が、これにつづいて走っています。
すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人はぐっとふみこたえました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただ、その間にも、無心の火は、火なわを伝はって、ずんずんもえて行きました。
北川は、決死の勇気をふるって、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますように、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
三人の心は、持った破壊筒を通じて、一つになっていました。しかも、数秒ののちには、その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
(後略)*1
1932年の(第一次)上海事件は、自作自演の満鉄線爆破という謀略をきっかけとした満洲事変から国際社会の注意をそらすために、これまた謀略(日本人僧侶「襲撃」事件)を一つの契機として始まった。上海事変での日本側戦死者は769名(負傷者2,322名)*2であったが、いずれも死ななければならない理由などない死であった。
なお、上野英信は「爆弾三勇士の中に被差別部落民がいる」という噂があったことを指摘している*3。“部落民に死に場所を与えてやったのだ、ああいうことを言いつけてやると喜んで死ぬのだ”といった陰口まであったという。中内敏夫はこうした噂の背後に「一方では差別意識をあおっての殉国精神の強要のための、他方では融和政策のための、それぞれの道具として効用妙に使いわけ、活用しようとする立場」があったと指摘している*4。