『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」』

  • 一ノ瀬俊也、『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」 帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』、文藝春秋

ジョン・ダワーの『容赦なき戦争』などが分析対象とした「戦争下の日米が相互に抱いたイメージとその作られ方」という問題に、「戦法(マニュアル)」という観点から取り組んだもの、というのが著者自身による本書の狙いの説明。米軍の対日戦マニュアルにみる旧日本軍の対米戦法、旧日本軍の対中国戦マニュアルにみる日中戦争の戦訓、対米戦のマニュアルが作成される過程やそこにみる旧軍軍人たちの意識……などが扱われている。
「日米が相互に抱いたイメージ」が主題でありながら日中戦争にも一章が割かれているのは、後に日本軍が米軍相手にとる戦術の原型が日中戦争における中国軍のそれにある(ように思われる)から、である。ここからわかるのは、軍事的に劣勢にある軍がなお抵抗を続けようと思えば似たような「弱者としての戦法」を選ばざるを得ないという「冷徹な原則」である(150ページ)、と。本質主義的民族観への具体例を通じた解毒剤としての意味ももっていると言えよう。
本書のもう一つの論点は、物量に対して精神力で対抗しようとした日本軍は非合理的な精神主義だったのか? という問題。この点についてのキーワードは「自己説得」。火力で米軍に対抗できないことは百も承知だが、それでも戦う以上はどうにかして勝機を見出す必要がある。与えられた条件―絶望的な条件―でどうにか合理的に考えた結果が本書で具体的に紹介されているゲリラ戦法の数々なのであり、勇ましい言葉は参謀たちの「自己説得」のためのものだったのではないか、と。銃剣突撃を重視した1909年版の「歩兵操典」は火力不足を精神力で補おうとした非合理性の現れではなく、日露戦争の戦訓に学んだものだった、という戸部良一氏の議論を想起した。


その他、興味深かった点を断片的に。
捕虜の取り扱いについて言及した日本軍の戦術マニュアルについて(139ページ以降)。例えば天津駐屯歩兵隊が作成した『市街戦教育の参考』(1932年6月)は市街戦において「敵を武装解除する場合の方法、注意等も大切なる教育法ではあるが之は別に口述する」としている。これについて著者は「「口述」としたのは何も考えていなかったので後まわしにしたか、書いて他人の目に触れることをはばかられるような内容だったかのいずれかであろう」と推理している。さらに「素質不良軍に対する戦闘は吾人日本軍訓練の終局目的ではない」「こんな特殊な戦闘はあまり歓迎せられないし、又小さな要塞戦の様なもので決して面白いものではない」などと、ゲリラ戦や市街戦をまじめに考えようとしない姿勢が伺えるという。
前線の兵士たちがことのほか地雷を怖がった、ということについて(231-4ページ、246-7ページ)。「小銃弾の死は眠るがごとく壮烈で神々しい」が「地雷の死はあまりにも酸鼻」だとした旧軍将校の著作などが引用されている。ある工兵連隊の戦史に曰く、「熾烈な銃砲火をものともせずに突撃を敢行する歩兵部隊が、こと地雷に関しては戦意を失うということは我々工兵には理解し得ない事である」、と。「どうせ死ぬのならどんな死に方をしても同じ」という理屈は戦場ではリアリティを持たないということだろう。ちょっと文脈は変わるが、リスク評価の心理学という観点から考えてみる価値もありそうだ。
数万個のコンドーム(310ページ)。太平洋戦線の日本軍は湿気で火薬類がダメになってしまうことに悩まされたが、砲弾を改造した手榴弾を「野戦病院に山積みされていたサック」で防湿したところ多いに効果があった、と。このコンドームは「第六師団が一九四二年一二月に中国から南方に転戦するにあたり、将兵が花柳病にかかってはいけないというので上海中の薬局から買い占めたもので、数万個もあった」とのことである。