朝鮮人虐殺の原点としての甲午農民軍「討伐」

当ブログの古くからの読者の方であれば、「関東大震災時の朝鮮人虐殺は〇〇とは違う!」と強弁したある人物のことを思い浮かべられたのではないでしょうか。

この↑詭弁の下敷きになっているのは当然のことながら山本七平です。関東大震災時の朝鮮人虐殺について山本がどのような詭弁を弄したかについては、数年前にやや丁寧に分析しておきました。

このエントリで言及した三・一独立運動に対する弾圧は、しかしながら、近代日本による最初の大規模な朝鮮人虐殺というわけではありません。
私が中等教育を受けた当時は「東学党の乱」と呼ばれていた第一次甲午農民戦争(東学農民戦争)が日清戦争の契機(日本にとっては口実)となったことはよく知られています。94年の春に蜂起した農民軍は6月の全州和約によっていったん矛を収めます。しかし日清戦争勃発以降、日朝暫定合同条款や大日本大朝鮮両国盟約を通じて日本が朝鮮政府に対清戦争への協力を強要したことが、農民軍の再決起を促します。これが第二次甲午(東学)農民戦争です。

 戦争協力を拒否せよ、という東学の呼びかけは七月下旬には広がっていた。軍用電信を破壊し、兵站線や兵站部を襲う東学農民軍の「討伐」は、日清戦争の勝敗を握る重要な問題だった。さらに東学「討伐」の帰趨がロシア軍介入如何に関わり、日本の勝利が危うくなる可能性があった。一〇月、陸奥外相は井上馨朝鮮駐在公使に打電し、東学勢力が朝鮮北部に向かわないよう厳重な注意を与えた。
 「緑豆将軍」と親しまれた全琫準を盟主とする東学主力の再度の武装蜂起は、ようやく一〇月九日であった。東学農民軍への本格的な弾圧が、一一月から翌九五年四月初旬にかけて続けられる。弾圧部隊の主力は、一一月初旬に到着した後備歩兵独立第一九大隊など二七〇〇名の日本軍。それに二八〇〇名の朝鮮政府軍、各地の両班士族や土豪などが組織する反動的な民堡軍が加わり、村の隅々まで捜索する「討伐」作戦を続け、最西南端の海南・珍島まで追いつめ文字通り殲滅した。五ヶ月間の農民軍の戦闘回数は四六回、農民軍参加人員は延べ一三万四七五〇人と推定されている。もう一つの日清戦争であった。
(原田敬一、『日清・日露戦争』、岩波新書・シリーズ日本近現代史(3)、2007年、71-72ページ。強調は引用者、原文のルビを省略。)

この「討伐」戦については、次の文献が詳しく紹介しています。

  • 中塚明・井上勝生・朴孟洙、『東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争』、高文研、2013年

「討伐」戦を指揮したのは当時参謀次長兼兵站総監だった川上操六・陸軍少将ですが、南部兵站監部陣中日誌は川上が10月27日に出した命令を記しています。

 釜山今橋少佐より、左の電報あり。川上兵站総監より電報あり、東学党に対する処置は厳烈なるを要す、向後悉く殺戮すべしと。
(同書65ページ、原文のルビを省略)

農民軍の本拠地は朝鮮半島中部の報恩(忠清道)でしたが、日本軍は原田氏が記しているように朝鮮半島西南部へと農民軍を追いつめ、さらに軍艦2隻を派遣して島嶼部への逃亡を防ぐ包囲殲滅戦を行いました。その過程では捕虜も殺害していたことが記録されています(65-66ページ、95-96ページなど)。著者の一人井上氏(「討伐」戦の軍事的展開に関する第III章「日本軍最初のジェノサイド作戦」を担当)はこの「討伐」戦に従軍した兵士の日記を収集することに成功していますが、そこにも「帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり」「残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田○○一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを殺せり」といった記述があります(101-102ページ、氏名の一部を伏せ字にした)。後者はアジア・太平洋戦争における「刺突訓練」を思わせる虐殺です。農民軍側の犠牲者数はまだ完全に明らかにされてはいませんが、本書では「三万人から五万人」というこれまでの推計が紹介されています。これはつまり、日清戦争において日本軍よりも清国軍よりも多くの死者を農民軍が出したということであり、原田氏の「もう一つの日清戦争」という評価は誇張でもなんでもないわけです。近代的な装備をもたない農民軍を、「鎮圧」の域を越えて一方的に殺戮し、さらには法によらずに捕虜まで殺害していたのですから「日本軍最初のジェノサイド作戦」という本書の評価も頷けますし、レイシズム*1を背景とした欧米列強の植民地戦争と比較して然るべき「戦争」であったと言えます。


なお、第3次家永教科書裁判では、この第二次農民戦争に関する記述も争点となっており、『東学農民戦争と日本』の著者の一人中塚明氏が原告側証人として出廷しています。判決ではこの争点についての原告側の請求は斥けられたものの、家永氏の記述に学問的な裏付けがあることは認められました。

*1:日本兵が「野蛮に対する文明」の視線をすでに内面化していた点については、原田氏が指摘しています。72ページ以降。