日中戦争勃発直前の「廃娼運動」状況

 長年、活動を行ってきた廓清会と婦人矯風会は、一九二六年(大正一五)六月に廓清会婦人矯風会連合(同年一〇月以降、廃娼連盟と改称)を結成、一九二九年までの三年を第一期として運動を進めたが、一九三〇年から五カ年計画で一九三四年をめどに廃娼の実現を期し、第二期となる運動を展開した。
 これに先だって一九二九年にジュネーヴで開催された国際連盟婦人児童売買委員会は、東洋諸国を対象とする「婦人児童売買実地調査」の続行を承認、翌三〇年五月、バスコム・ジョンソンを委員長とする三名の委員による調査団派遣が決定され、三一年六月にジョンソン調査団は東京に入った。政府や業者による実態の隠蔽工作にもかかわらず、三三年に発表された報告書では日本の「公認妓楼」すなわち公娼制の存在が広く知られることとなり、これが「婦女売買」の土台をなしていることが明確に指摘された(「ジョンソン調査団報告書」『日本女性運動資料集成 第九巻』一三四−一四五頁。鈴木、前掲「解説」二六頁)。これによって日本政府も国際的な体面からも、廃娼に踏み切る方向性を明らかにせざるをえなくなった。
 そして一九三四年、廃娼陣営の一部と貸座敷(遊郭)業者との間に妥協が成立し、「公娼廃止、私娼黙認」の線で合意をみた。政府内務省当局も、公娼廃止に乗り出す構えをみせ、これをみた廃娼連盟は早々と解散を決定し、国民純潔同盟へと改組、廃娼令実施後に備えた。しかし結局廃娼令は公布されず、結果として、廃娼運動の解体と引き替えに、運動はより精神的・倫理的要素の勝った国民純潔運動となる。これが、戦時体制下の総動員運動とあいまって、純潔報国運動へと転化していく(鈴木、前掲「解説」一九−二〇頁)。この意味で、一九三五年という時期は、運動の転換点であるのだ。
(牟田和恵、「女性と『権力』―戦争協力から民主化・平和へ」、『岩波講座 近代日本の文化史8 感情・記憶・戦争』所収、142-143ページ)

当時の日本のエリート層にとって、「婦女売買」を深刻な人権侵害とみる価値観が借り物にすぎなかったことは37年以降軍「慰安所」制度が本格的に展開していったことからも明らかですし、また廃娼運動の側にも問題があったことは上記の短い引用からですら伺うことができます。それでも、たとえ建て前としてではあれ、1935年の段階で日本政府が「公娼制廃止やむなし」という認識に(ほとんど)到達していたこともまた事実であるわけです。「慰安婦」問題否認論者が言い募るように「当時の日本では当たり前」だったわけではありません。
なお、引用文中の「鈴木、前掲「解説」」とは、『日本女性運動資料集成 第九巻』(不二出版、1998年)に収められた鈴木裕子氏の「解説」を指します。